第126話 死者4


 その感覚は、冬の冷たくて暗く、深い海に突き落とされるのに似ていた。


 思わず、持っていたグラスをテーブルの上に落とし、中に入っていた黄金色の液体を撒き散らしてしまった。


 白いテーブルクロスの上を、液体がジワリと滲み、広がっていく。それを見つめる僕の視界が一瞬陰る。


 指先の感覚が冷え、鈍くなっていた。ただ、その感覚もわずかの間を置いて消えた。


「あらぁ、大丈夫?服に飛んでないかしら」


 店主の女が慌ててフキンを持ってやってくる。


「シエル?どうしたのです?」


 斜め前に座るピニョが怪訝な顔をした。そして、ハッとしたように眼を見開く。


「レオ様に何かあったのです?」

「おそらく……」


 ピニョが持っていたフォークを落とした。カシャンと、皿が高い音を立てた。


「あわわわわっ、探しに行きますですっ!!」


 椅子から飛び降り、出口へ走り出すピニョ。


「まっ、」


 何があったのかは知りたいが、ここは仮にも相手のテリトリーであり、異様な魔力が充満している結界の中では不利になる。


 だから慌てるピニョを引き止めようと立ち上がりかけた、その僕の肩を、店主の女が引き留めた。


「おとなしくしてくれるかしら?」

「っ!」


 僕は言われた通りに、椅子に座り直した。出口直前で、ピニョはほかの住人たちに羽交い締めにされている。


 小さな身体にドラゴンの力を持つ、いや逆か。強い力を小さな身体に無理矢理閉じ込めているピニョを抑えるために、大の男が六人ものしかかっている。こんな状況でなければ、大いに笑えたのに。


「これは……どういうこと?」


 冷静に、煮えくり返りそうなハラワタを鎮めながら聞いてみた。


「悪いわね。あたしたちのためなのよ」


 店主の女が本当に申し訳なさそうに顔を顰めた。魔族にはできない感情の表現だ。


 自分の欲求に忠実な魔族の殆どが、取り繕ったり感情と真逆の行動をとることを苦手とする。人間で言うところのバカ正直と同じだ。僕がいつも笑顔を浮かべているのは、あふれる感情を隠したいからだ。


 その点人間はすごい。


 全く悪いと思っていないのに、悪いなあという顔が自然にできるのだから。


「この集落を覆う魔力と関係がある話?」

「そうよ」

「レオに何をしたの?答えによっては、僕はここを破壊して、君たちを容赦なく殺すけど……ああ、もう死んでるんだっけ?」


 ニッコリと笑みを浮かべて言った。その言葉に、店内にいた全員が、突然表情を無くして僕を見た。


 なるほど。死者、とは確かにここの住人のことを言っているなと思った。


「あたしたちは死者じゃないわ。ほら、こうやってお話も食事もできるでしょ?あなたは何をもって死を死だというの?話せなくなったら?食事をしなくなったら?年老いて、身体が動かせないことも死んだと同じだと思わない?あるいは、自分に自信を無くして生きることが苦痛になったなら、死んだと同じではないの?」


 そんなこと、魔族の僕に聞かれてもわからない。


 死とは突然、不運に訪れるイベントのようなものだ。相手にした敵が強過ぎた場合に起こるイベントだ。


 魔族は歳を取らない。病気にもならない。だから、徐々に確実に忍び寄る死の恐怖は理解不能だ。


 ふと、レオのことが頭を過ぎる。


 魔族と同等か、それ以上の魔力を持ち、人の身にあまる才能でもって闘い続けるレオも、忍び寄る死を恐れているのだろうか。


 今まで時を共にしている間に、そんなそぶりを見せたことはなかった。


 僕がそばにいなければ確実に死んでいるような怪我を負っても、顔色ひとつ変えたことはない。


 身体の限界がすぐそこだと知っている今でも、不自然なほどいつも通りだ。


 そんなことは、今はどうでもいいか。


「悪いけれど、僕とは死の概念について話し合いなんてできないと思うよ。僕は魔族だから」

「っ!?」


 女が僕から数歩後ずさった。その隙に手を打ってもよかった。この店ごと吹き飛ばすとか、なんでも。


 だが、運の悪いことに、僕が動く前に店のドアが空いて、背は低いが筋肉質な男が入ってきた。


「ハッ、レオ様の匂いです!!」


 ピニョがググッと力を振り絞り、押さえつける男たちの力を無視して顔を上げた。


 今し方入ってきた男が、抱えていた人間をピニョのそばに放り投げる。ドサリと木の床に転がったのは、言わずもがな、レオだ。


 ボサボサの金の髪の下、肌は青白く閉じた目蓋が苦しげに僅かに震えている。


 生きているのならそれでいいか。


 と、思ったが……これはまた、面倒な事になっている。


「どうやったのかは知らないが……レオの魔力を奪ったのは、ロイネ?」


 そう問えば、小柄で筋肉質な男の背後から、ロイネが顔を出して頷いた。


 これだから固有持ちは厄介だ。時に不可能なことを可能にし、それは大抵誰か他の人の迷惑になる。


「シエル、ピニョ……おとなしく、ボクに従って……そしたらレオは、殺さないであげるから」


 ピニョを見やる。涙を流し、首を振っている。あれは多分、余計なことしないで、という感じだ。


「……わかった。抵抗しないよ。でも、レオは返してもらう」


 やれやれ、と僕は椅子から立ち上がった。倒れたままのレオを肩に担ぐ。


「閉じ込めるのなら、相応の結界でも張らないとダメだよ。魔族は君たちが思っているより短気で横暴だから」


 ロイネの目を真っ直ぐに見た。


 その瞳の奥にある金色の輝きは、レオの魔力だ。


 僕は内心で苛立ちを覚えた。


 僕のものを横取りされた気分だった。

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