第108話 魔族と魔術師2


 その魔術師は、沿岸に一際大きな邸宅を構えていた。


 十年前に頓挫した研究の後も、協会魔術師として任務や研究に精を出し、ひと財産築いたようだった。


 現在の歳は五十代後半。一級魔術師にまで上り詰めたそいつは、早めに引退して優雅な生活を送っている。


 夜中の凪の海は、星と月の明かりを反射して綺麗だ。


 邸宅のそばまでやって来た俺とシエルは、断崖絶壁に建つ立派な家を横目に、その海を眺めていた。


「オエ……」

「綺麗な景色が台無しだ」

「うるせぇ……」


 岩陰で膝と手をついて吐き気を堪える俺の横で、シエルが嫌な顔をした。


「そんなにイヤなら、僕が代わりにその人間を殺してこようか?」


 そうしてくれるととてもありがたいのだが。


「どうせジェレシスに止められてんだろ。手は出すなって」

「当たり。よくわかってるじゃないか」


 驚いたよ!と、大袈裟に両腕を広げて見せるシエルに軽く殺意が湧く。


「でも僕は、ジェレシスに何も言われていなくても手助けはしなかった。君は自分の手を汚さなければ、ずっと幻覚に悩まされることになる」

「なんでわかったんだよ?」


 シエルには、俺に見えているものがわかるようだ。


「君を見ていればわかる。さっきも、君の視線はジェレシスとその周りを漂っていたから」

「なるほど。っても、誰かを殺したら殺したで、俺はまた違う幻覚に悩まされんだよ。どうせ弱い人間なんだからな」

「作り物にしては、えらく感情豊かでナイーブだね。もう少し頑丈に作ってもらった方が良かったんじゃない?」

「シエルは俺を泣かせたいのか」


 そう言うと、シエルは黙って肩を竦めた。


「とにかく、さっさと終わらせよう。もう出るものも無い」

「今度から食べる前に仕事をするといいよ」

「うるせぇな」


 俺はひとつ深呼吸をしてから、できるだけ感情を押し殺した。もうなにも考えまい。


 魔力を体内で確認して、それを少しずつ捻り出す。魔力感知で相手が邸宅の二階にいることがわかった。


「シエル、二階の端の部屋だ。あの窓の」

「わかった」


 シエルが俺のシャツの袖を掴む。一瞬で目的の部屋へ移動した。


 暗い部屋は、月明かりが淡く照らし、シンプルな白で統一された家具や寝具がまるで自ら光を放っているように見えた。


 静かな寝息が聞こえる。


 あと、強烈なアルコール臭がする。どうやらこのおっさんは、相当に酒を飲んで寝たらしい。


 それならそれで、目を覚ますことはないだろうからありがたい。おっさんにとっては、それが命取りとなるわけだけど。


「レオ」


 シエルが急かすように俺の肩を押した。


 わかってる。長居は無用。するべきことを、するだけ。


 躊躇ってはいけない。


 躊躇いは、過去に死んでいった仲間に対する裏切りと同じだ。


「〈黒雷〉」


 呟くように言った声は、自分でもわかるほど震えている。


 黒い刃の剣を片手に、膨らんだ掛け布団へと足を進める。柔らかいラグが敷いてある床を踏む感覚すら感じなかった。


 近付いていくたびに呼吸が乱れ、心臓の音が外へ漏れ出しているんじゃ無いかというほどバクバクと鳴った。


 ベッドの脇に立つ。あとはこの剣を、目の前の肉の塊に突き刺すだけだ。


 振り上げた剣は、いつになく重い。


「っ、誰だ!?」


 その瞬間、時間をかけすぎたことに後悔した。


 寝ていたはずのおっさんが飛び起きたのだ。


「〈剣尖の刃、鎌鼬の如く、切り裂け:風双破〉!!」


 寝起きにしては流暢に素早く詠唱を行い、おっさんは半裸の状態で片手を挙げた。


 眩く輝く円環が室内を照らし、鋭い風が唸りを上げて襲って来た。


「グハッ、クソ!」


 避けきれず、その風は俺の四肢を切り裂き、辺りに鮮血が飛び散る。風圧に少しよろめいた。


「誰だっ!?」


 ベッドから転がり落ちる勢いで反対側へと立ち上がったおっさんは、下着一枚の格好でさらなる魔術を発動しようと魔力を練り上げたのがわかった。


 そこで初めて、頭にかかっていたモヤが晴れた。深い海の底から地上へ顔を出した気分だった。身体が軽い。息苦しくも無い。痛みも感じない。


 身の危険を感じた獣が、無意識にそれまで以上の力を発揮するように。


 気が付けば身体が勝手に、おっさんへ反撃しようと動き出していた。


 咄嗟に逃げようと後ずさるその胸へ、俺の剣は真っ直ぐ吸い込まれるように突き立った。


 魔族を相手にしている時と同じ感覚だ。どれほどの魔力を魔剣にあげれば、どれくらいの斬れ味になるか。その剣をどこに突き刺せば、効率よく息の根を止められるのか。


 それだけが、俺の思考を支配して、世界が止まって見える。


 ズブリと嫌な感触が、剣を持つ手を伝って脳幹に響いた。


 顔を上げると、徐々に生気をなくす瞳が真っ直ぐ俺を映していた。


 力なく倒れる身体から逃げるように剣を抜いて後ずさる。膝の裏がベッドの端にあたって、そのままペタッと膝を折る。


「魔族も人間も、それほどかわらないだろう」


 シエルの声はがどこか遠くから聞こえる。


「散々魔族を殺して来た君が、今更人間を殺したって何も変わらない。感情を持つ生き物という意味では、僕も君も変わらないからね」


 それはシエルなりの慰めなのかもしれなかった。だから深く考えるな、と言いたいのだろう。


「そうだな……お前の言う通りだ」


 言葉ではいくらでも言える。でも感情を隠すことは難しい。


 魔族に苦しめられる人を救うために、ひたすらに魔術を極めて来たが、そんな俺が人間を殺してしまったら、もう今までと同じように魔術を使うことができないような気がした。


 魔力コントロールは感情に左右される。


 この瞬間、俺はどうやって魔力を扱っていたのか、わからなくなった。


 幸いなのは、魔術で殺さなかったことだろうか。


「さて、仕事は終わったし、さっさと帰ろう。あとはジェレシスがなんとかしてくれる」

「ん」

「……君が怪我をすると、怒られるのは僕なんだから気をつけて」

「……今後はそうする」


 はあ、とシエルがため息をついた。俺が全く動かなかったからだ。


「行くよ」


 シエルの冷たい手が、俺の腕を掴む。〈転移〉が発動し、男の死体がグニャグニャ歪んで見えなくなった。

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