第102話 パーシーの森3


 森の中は、残暑厳しい街と違って、湿っぽくてあまり暑くはなかった。


 生き物の息遣いが近くで感じ取れるが、姿は確認できない。森がこの地に棲む生物を守っているかのようで、俺たちは歓迎されていないんだとわかる。


 大気に色濃く満ちている魔力も、以前来た時とはまた違う感じがした。


 東部の拠点を奪還しに来た時には、とても懐かしく感じた。その前に一度来た時にも、この森の持つ不思議な魔力に心惹かれたことも覚えている。


 でも今回に限っては、懐かしさや心地よさよりも強い、明確な拒絶を感じる。肌を撫でる森の空気が、刺すような冷たさを纏っているのだ。


 元々ひとりの魔術師だったという話は、あながち間違いじゃないのかもしれない。魔力には魔術師の感情が反映されやすいからだが。


 だとしたらパーシーは、まだこの森で生きているということになるのか。


 あらためて魔力って不思議な力だなと思う。


「先に言っておくが、俺がこれからお前に話すのは、お前がキレイさっぱり忘れて無かったことにしているガキの頃の話だ」


 思わず木の根っこに躓いてズッコケそうになる。


 俺の前を淡々と歩いていたジェレシスが、ジトッとした目で振り返った。


「……鈍臭いとこも変わらないな」

「ちょっと待てよ!なんでお前がその事知ってんだよ?」

「だからそれを今から説明する。いつまでも無かったことにされているのも、いい加減腹が立ってきたからな」


 なんでかめっちゃキレられているが、俺、コイツに何したんだ?


「ほれ、最初の思い出の場所な」


 そう言って立ち止まったのは、苔むして朽ち果てた巨木の残骸の前だった。根本から1メートルほど残っていて、大きな口を開けているみたいに空があった。


 陽の光がそこにだけ降り注いでいるからか、白や黄色の小指の爪くらいの花が点々と咲いている。


「随分とメルヘンな思い出の場所だな」

「ここで仲間がひとり死んだ」

「……仲間?」

「そうだ。まだ八歳の女の子だった。名前はセイラ。逃げる時に怪我をしていたが、ここまでもった」


 ジェレシスは特に感情を露わにすることもなく、ただ事実を述べているといった感じだった。


 俺はというと、全く持って何も思い出せずにいた。仲間だというそのセイラの話を聞いても、ピンとも来ない。


「……冷たい人間だな」

「んなこと言われても、十年放置していた記憶を急に思い出すなんて簡単にはできねぇよ」


 するとジェレシスは肩を竦めてその場所を離れる。


 次に向かったのは、森を横断するように流れる川の側だった。サルファへ流れる川は途中で小さな滝になる。その滝から数メートル上流で立ち止まったジェレシスが、太陽を反射して光る水面を見つめて言った。


「ここでキリヤが足を踏み外した。真冬だったから、誰も助けに行こうと言わなかった」


 そんな調子で、ジェレシスは日が暮れても、辺りが夜の闇に包まれても、俺を森のあちこちへ連れ回した。


 辿った道はジグザグでデタラメで、森から出たいというよりも、何かから必死で逃げようとしている感じだった。


 冷静な今の自分なら、そんな道は通らないというような道順を辿り、ついにジェレシスが立ち止まる。


 そこには大きな岩がゴロンと転がっていて、木々ばかりの深い森の中で、また違った景色を作り出していた。


「俺たちはここで捕まった。正直この数日、仲間が死んだ場所を探し歩いたが、やっぱり全員は思い出せなかった。だがな……ここはしっかり脳みそに焼き付いてるぜ」


 ジェレシスの瞳は、いつのまにか魔族の暗く淀んだ灰色に戻っていて。


 俺はその色と月の光を見た瞬間、思わず涙が溢れた。


 頭が割れそうなほど痛み出す。


 この痛みは、今まで忘れていた事に対する罰なのかもしれない。


 最初に俺が言った。『外に出たい』と。


 みんなが賛同してくれた。俺は誰よりも強い自信があった。


 そういえば、ジェレシスだけは最後まで不安そうな顔をしていたのを思い出す。俺よりも五つほど歳上だったのに。


「思い出したか?」


 その場に膝をついた俺に、ジェレシスの感情の希薄な声が降ってきた。


「お前が……俺を〈転移〉させたんだな」

「そ。それが俺の精一杯だった。ガキだったし、いったいどこへ飛ばしたかもわからんかった」


 それがヴィレムスの雪山で、ザルサスにあったあの日だった。


 〈転移〉の直前の光景が、まるでパラパラマンガみたいに脳内で再生される。


 ジェレシスの手が俺に触れる前の、その光景に息が詰まった。


「っ、お前……」

「ハハッ、俺も死んだと思ったぜ。なんせズタボロだったし、俺はまだ自分が魔族だなんて知らねぇからな」


 片腕を失い、臓物を撒き散らすジェレシスの姿を、その時の俺は涙で歪んだ目で見ていた。


 全部俺の所為だった。


 仲間がひとりずつ死んでいく。追手はすぐそこまで来ている。とても寒くて、飢えていた。


 外に出たいなんて言わなければよかったと、頭の中では考えていた。でもそれを言い出すのはズルイとも考えた。


 誰も言い出さないのに、言ってはいけない。


 でも日が経ち、少しずつ仲間が減っていくと、誰かが言い出した。


『お前があんなこと言わなければ良かったのに』

『死にたくない』

『お前の所為だ』

『許さない』


 呼吸が不規則で、酸素が足りない脳みそは壊れたみたいに次から次へと記憶を再生する。


 〈封魔〉の痛みとは違うそれは、心に直接刃物を刺されているよう気分だった。


「っは、はぁ…違う……俺だって忘れたかったわけじゃない!!……好きで生き残ったわけでもない……」


「だが忘れていた事は事実だろ。お前は忘れるべきじゃなかった。あいつらの顔を、声を、背負った上で生きていくべきだった。だから俺はお前を助けた。だってズルイだろう?お前だけのうのうと生き残り、何事もなかったみたいに『金獅子の魔術師』なんて呼ばれて、金も名声も手に入れてよぉ……その上学院にまで通い出して。俺たちの望みを、お前だけ全部独り占めしたんだぜ」


 畳み掛けるような言葉に目の前が真っ白になる。もうやめてくれと思うのに、口を開くことも、声を発することも出来なかった。


「お前は全部知った上で、魔術師続けんのか考えるべきだ」


 全部思い出した。


 俺はこの森のどこかで育ったんだ。


 無機質な壁と表面だけで笑う大人に囲まれた、狭い世界で、物心ついた頃にはそこにいた。


 ツンとした薬品の匂いのする白い小さな部屋と、さらに小さな何もない自室と、みんながいる大きな部屋だけを見て育った。


 目の色も髪の色も肌の色もバラバラな仲間がいた。


 今ならわかるが、魔族と人間が大体半々だった。その中でも俺はジェレシスを特に気に入っていて、いつもくっついて歩いていたのを思い出した。


 いつから外に出たいと思い始めたのかは覚えていない。


 だけど、あんなこと言わなければよかったと、後悔してももう遅い。


 人に恨まれることがどうしてこんなに怖いのかを、今初めて理解した。


 俺はすでに、人から恨まれる恐怖を知っていた。それを都合よく忘れていたに過ぎない。


 ジェレシスの言うことは正しい。


 俺だけが普通に外の世界で生きていた。そんなこと、許されるわけがないのに。


「俺はお前を許さない。もちろん自分を許すこともできない。俺も生き残ってしまったからな。だからレオ、力を貸せ。お前の手で精算しろ」

「……精算?」

「仲間を殺した奴らを同じ目に合わせてやる。お前は俺に手を貸す責任があるだろ」


 言い出したのは俺だ。仲間を失う原因を作ったのは、たしかに俺自身だ。


「そもそも俺たちがなんであんな施設にいたのか。俺はその理由を知っている」


 涙でボヤけた視線をあげると、いつものニヤニヤ笑いではなく、真剣な……記憶の奥底にある子どもの頃のジェレシスの顔があった。


 思慮深く、知的なその眼を、俺は覚えている。


「レオ。もう俺たちを見捨てたりしないよな?」


 その言葉とともに、仲間の姿が一斉に映し出された。幻覚か妄想か、なんでもいい。


 言う通りにしなければ。


 俺が責任を取らなければ。


 その姿が影となって、一生ついてくると思った。


 恨みの募った暗い目を、ずっと俺に向けてくるのだと思った。


 頭が痛い。心臓も痛い。呼吸の仕方を忘れてしまったようで、うまく息をすることができない。


 叫び出したいのに、俺の喉はなんの音も発しない。


 苦しいのは酸素が足りないからだけじゃない。


 返事をしなければと思うが、俺の脆弱な精神は、そこで考えることを放棄してしまったようだった。


 プツンと、まるで魔力切れを起こした魔道具みたいに、俺の意識は機能することをやめてしまった。

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