第100話 パーシーの森1


 沿岸のサリファという街は、穏やか湾に沿うようにカラフルな建物が並ぶ色彩感覚が変になりそうなナターリア東部の中堅都市だ。


 フェリルには及ばないまでも、交易や漁業で経済活動の一端を担う重要な街だから、人や物で溢れた賑やかな街だ。


 その街の端に二階建てのクリーム色の建物がある。けっして目立つ立地ではないのだが、人が常に出入りする賑やかな建物だ。


 そこは魔術師が細々と営む診療所だった。街の中心部にある大きな病院にかかる金のない人間や、原因不明で手のつけようが無い患者が、不思議な力を求めてやってくる。


 んで、俺はその診療所の二階、ここの魔術師の住居でもあるそこで、ピニョの寝顔を見つめていた。


 甲斐甲斐しく世話をしてやるとか、手を握って祈ってやるとか、そういうこともせず。


 ただ時たま震える目蓋を見ていた。


「ふう…やっと一息ついた。きみもコーヒーでも飲むかい?」


 いくつかあるうちの一部屋を借りていて、その部屋の開け放たれたドアの前に立つおっさんが言った。


 この診療所の魔術師だ。40代後半くらいで、疲れた顔をしているが穏やかな瞳のおっさん。


「いや、いらない」

「……そろそろきみ自身にも休息が必要だと思うのだけど、こんな寂れた診療所の医療系魔術師の言うことは聞けないかな?」


 ここに来て二日、確かに俺はずっとピニョのそばにいる。あれだけ魔力を使ったから今にもぶっ倒れそうだが、ピニョが目を覚ますまでは気を抜けない。


「わかった」


 頷くとおっさんは静かに笑ってキッチンへ向かった。丸椅子から立ち上がるのも億劫だったが、フラフラの足を動かしてダイニングテーブルに着く。


「その状態でよく起きていられるね」

「今にも寝そうだけど」


 寝るというか、気絶しそうだ。


「あの子は大丈夫だよ。応急処置をした人の腕が良かったみたいだね」


 カップを選びながらおっさんが言う。確かにシエルの再生能力は魔族の中でもズバ抜けている。


 それなのにどうして診療所にいるかというと、単にシエルの魔力が保たなかったからだ。


 『クラウフェルト製薬』の作り出した、魔力持ちにとって恐ろしい薬は、国を経由して魔族の手に渡ったらしかった。


 そもそも、俺を狙ったという今回の襲撃は、結局ルイーゼと魔族の偉い貴族様の企みであり、シエルは俺と手を組んでいたとして捕まっていて、それをジェレシスが助け、のこのこと戦場に現れた。それが三日前の出来事だ。


 あの時ジェレシスが来なければ、俺は確実に特級魔術師二人を殺していただろう。


 そうなるともう言い逃れはできない、と、ジェレシスが言っていた。どんな理由があるにせよ、大勢の目の前で特級魔術師を殺すなど、ルイーゼはそれを大義名分として俺を逃しはしない。


 まあ、魔族に連れられて、あの場所から逃げたのだから、どっちにしろ俺にはもう帰る場所はないのだが。


 その後ジェレシスはどうしてかパーシーの森に用があると言って、東部のこの地に来たのが二日前だ。


 シエルが限界なのと、ピニョには医者が必要だったから、こうしてパーシーの森に程近いサリファへ立ち寄った。


 目の前のおっさんは、この辺りでは有名な医療系魔術師だと街の人に聞いて、現在世話になっている。


 おっさんはの名はディエゴで、確かに魔術の腕は良かった。それに、未だ黒く醜いアザの残る俺を見ても何も言わず、さらには事情も聞かないままでいてくれる。


 逆に怪しいと思ってしまうのは、俺がそういう腹黒い世界に長くいすぎたせいか。それとも、本当にこのおっさんが良い人間なのか。


 どっちにせよ、ピニョは無事だ。今はそれだけでいい。


「はい、おまたせしたね」

「…ありがとう」


 ディエゴが熱いコーヒーを二つテーブルに置き、向かいの椅子に座った。


 診療所の朝は早く、診療時間は正午までと決まっているのに、現在午後三時を回ったところだ。ここを訪れる患者は多く、よくやっていられるなと思う。


 協会魔術師は献身という魔術師本来の姿なんて知らん顔しているのに、協会に属さない野良魔術師の方が余程魔術師らしい。


「きみのそのアザは私には治してやれないが……まったく、世の中には子どもに酷いことをする人間がいるもんだね」


 ディエゴの淹れてくれたコーヒーは、まるで砂糖を溶かしたお湯みたいだったが、それを飲むディエゴは苦々しい顔をした。


「これが何か知ってるのか?」

「もちろん。私は所謂野良の魔術師だが、ザルサス様の封印術は有名だ。彼ももともと野良魔術師だったしね」


 俺はちょっと笑った。久しぶりの自分の乾いた笑い声を聞いた。


「じゃああんたは今、ザルサスを酷いやつと言った事になる」

「確かに。失言だね、お偉い魔術師様に向かって」


 ディエゴも同じように少し笑った。


 二日も世話になっていて、俺は初めてしっかりディエゴと話をしたかもしれない。


「この〈封魔〉をやったのはザルサスだが、俺は別に恨んじゃいない。それくらいには、あのジジイを信頼しているからな」


 許せないのは、次々とザルサスを裏切るような真似をしている特級魔術師たちだ。


 ピニョまで傷付けた代償は、しっかり払ってもらわなければ。


「きみの事情は聞かない。あの子の怪我が治るまでここにいるといい。そのかわりに」


 ディエゴは目元に優しげなシワを作って続ける。


「きみの手当てをちゃんとさせてくれないかな」


 その時、視界がグニャリと歪んだ。ギリギリのところで気を保っていた俺は、その急な眠気に逆らう事が出来なかった。


 コーヒーに眠剤でも仕込んでいたんだろうけど、最後に一瞬見たディエゴが、とても申し訳なさそうな顔をしていたから、まあいいか、とムダな抵抗をするのはやめた。


 疲れ果てていたのは事実だから、眠ると言うよりも気絶に近い形で、俺は意識を手放した。

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