第75話 初めてのアルバイト⑤



 一階ロビーにたどり着き、降りて来た階段とは反対側の端にある下り階段を目指す。


 アルバイトの初日、ロビーに備え付けられた案内の掲示板から、この建物の構造はすべて把握している。


 地下の研究所へ行くには階上へ向かう階段から離れ、間取りでいうと対角線上のドアを開けて階段を降りなければならない。


 その、壁と同化する様な白く無機質なドアを開けるのに、社員証が必要ってわけだ。


 魔術的な技術が一切介在しない電子ロックの液晶に、女から借りた社員証をかざす。


 ピピっと電子音がして、薄っぺらいドアが内側に開いた。


 足を踏み入れるとすぐに降りの階段があり、人の気配に反応して足元のみを淡いオレンジの光が照らす。空調が整えられているのか、地上階とはちがう人工的に乾燥したような空気が感じられる気がした。


 資料室は地下一階にある。階段を降りてすぐ右手の部屋だ。女が必要だと言った資料は、俺にはよくわからん名前のついたものだった。


 魔術のこと以外は基本的によくわからんし興味もない。


 従って資料室に入った俺は、言われた名前の付いたファイルを探すのに手こずった。なんせ似たような名前がずらっと並んでいて、しかも全て同じようなファイルだったからだ。


「やれやれ、せめてファイルの色くらい変えやがれ」


 全て同じように整える事に命をかけてでもいるみたいだ。俺たち魔術師は、もはや誰が書いたのかもよくわからないボロボロの古書を使いまわしたりしているので、本の装丁で見分けたりしている。


「んー」


 唸りながら並んだ棚の間を歩いていた時だった。


 カツンと、床をふむ革靴の音がした。


 先に言い訳をしておくと、魔術師は魔力感知で周りの気配を探っている。視覚、聴覚、嗅覚よりも先に魔力を感知し、俺くらいになるとその精度はバツグンだ。


 ただし、それは相手が魔族や魔獣、他の魔術師だった時に限る。


 さらにいうと、俺は今まで普通の人間と敵対した事が無かった。よって、影に潜んではなからチャンスを伺っていた魔力の無い人間に気付くのは困難だった。


 俺がその革靴の僅かな音に気付いて振り返えろうと動いた時は、その人影は素早く動いて俺の背後に回り込んでいた。


「んなっ!?」


 プツリと首筋の皮膚を破るツンとした痛みを感じ、それが細い針だと気付いた時には、俺の意識は急速に暗転していった。






 チャリ…と金属の冷たい音が、動かした頭のすぐそこで聞こえた。


 徐々に手足の感覚が戻ってきて、手の指を握ったり開いたりしてみる。


 よかった。指はまだ健在そうだ。ただ、後ろ手に回された腕は重たい鉄の枷が嵌められていて動かせない。


 それを自覚すると同時に、咄嗟に脚を確認しようと上体を動かし……ガチャンっと激しい音を立てて首が絞まる圧迫感が襲って来た。


「ウグッ」


 それまで気付かなかったが、どうやら俺は、分厚い金属の首輪を付けられているらしい。


 まるで犬だな、なんて事を思い、不快な気分で首を回すと、その首輪から伸びる鎖が目に入った。少し離れたところの床についた出っ張りに繋がれている。


 結局脚も動かないから、手首と同じように拘束されている事がわかる。


 でもこれで俺を完全に拘束したつもりでいるのなら、そいつは完全にアホだ。


 俺を誰だと思っている?


 歴代最強の魔術師だぜ?


 んなの魔術でどうにでも……


 あれ?


 拘束を解く詠唱が……思い出せない。


 俺はいつも、どうやって魔術を使っていたんだけっけ?


 一生懸命思い出そうとした。脳味噌に記憶という、文字通り引き出しがあるとすれば、俺はその引き出しを片っ端から開けた。引き出しの中は、確かに物が詰まっている。


 俺の生活において、大概の記憶とか知識はその引き出しに乱雑に入っているし、思い出せたり出せなかったり色々人間らしいところもある。


 だけど、魔術に関する事は絶対に忘れないように引き出しに、そこだけ付箋でもついてるみたいに入っている。


 それなのに今の俺は、その付箋の場所すら分からなくなっていた。


 ついでにいつもは、蛇口を捻れば水道管のキャパ以上に溢れ出た魔力も、今はその蛇口すら何処にあるのかわからない。


 とんでもないことになった。


 魔術が使えない事、魔力すら自覚できないことがわかると、今度はとてつもない焦りと不安を感じた。


 驚いた事に、自分が手足を拘束され犬のように首輪を付けられているという、なんのプレイ?みたいなこの状況よりも、このまま一生、死ぬまで魔術が使えないかもしれないということの方に絶望を感じていた。


 一体何が起こった?


 俺はどうしてしまったんだ?


 その絶望感は恐怖感も伴っていて、ふと溺死するやつはこんな気分なのかもしれないと思った。


 呼吸ができない。苦しい。怖い。死ぬ。


 そんな気分だった。


「そんなに青い顔をしないでください。詠唱が思い出せないことに恐怖を感じているんですよね。大丈夫ですよ、別に魔術が使えなくなったわけではないですから」


 この状況で、やけに優しい声音を発したのはグレーのスーツに革靴を履き白衣を着た男だった。少し離れたところから俺を見下ろすその顔は、初日に人事部所属と言っていたマース・メイエルだ。


「驚いて声も出ませんか?普通に思考する分には、頭は働くはずですが」


 マースが言うように、こうして俺は色々考える事ができているが、魔術が使えない事に動揺していて、最初に言うべき言葉が見つからなかった。


「簡単に説明しますと、あなたに打った薬は魔術師の特殊な器官にだけ働くように作られたものです。知っていますか?一般的に魔力持ちと言われている人たちの脳には、魔力を魔術として使用する為の特別な器官が備わっていると」


 淡々と語るマースの口調に、少し冷静さを取り戻した俺は、横たわったまま答える。


「知ってる。ただ、俺の専門外の分野だが」

「そうは言いますが、さすが博識ですね。元特級魔術師としては、当然の知識なのかもしれませんが」


 そう言ってマースは口元に笑みを浮かべた。


 マースが俺の素性を知っている事については、あまり驚きはしなかった。キルシュの時もそうだったが、知っている奴は知っているから、真剣に調べれば誰でもわかる事だからだ。


「最初から俺が狙いか」


 それは当然の疑問だろうと思う。


 全部初めから計画されていた事なら、俺はまったく気付かずに、のこのこと敵の懐にやってきた事になる。クッソダセェ。


「いえ、偶然ですよ。アルバイトに来ていただいた初日は、私も知りませんでしたから。結果的に私にとってはラッキーでしたが」


 ならよかった、と安心している場合でもない。


「何がしたいんだ?俺にできることなら協力するぜ?お前も知ってるかもしれないが、俺はクズ野郎なんだ。金さえくれりゃ意外となんでもやるぜ」


 一応提案してみる。


 本心は、わりと言葉のまんまだ。


「魅力的な提案ではあるのですが……元特級魔術師のあなたを雇うのはお金がかかりそうですね」


 と、マースは苦笑した。


「なので、別の方法で協力してもらいます」

「なるほど。出来れば痛いのと恥ずかしいのはやめてくれよ」


 何か話していないと不安だった。


 今までたとえ魔族の集団に囲まれても、平野を埋め尽くすほどの魔獣の群れを相手にしても、炭鉱を占領したバカでかいドラゴンを前にしても、ここまで不安だと思ったことは無かった。


 協会をクビになって封魔で力を抑えられた時でさえ、なんとかなるだろうと思っていた。別に魔術が使えなくなったわけではないからだ。


 何もせずに死を待つのではなく、全力でやりあって死ぬ事が俺の行動原理のひとつだったが、それは他には無い規格外の力を持って、圧倒的に勝てると分かっていたからだ。


 だが今こうして魔術も使えず、クソダサい格好で床に転がって軽口を叩く俺は、少しずつこっちへ近付いてくるただの人間のマースに、確かに恐怖を感じていた。


「あなたが今感じている恐怖や不安は、そのまま我々魔力の無い人間が感じているものと同じですよ」


 マースは医療用のゴム手袋を嵌めた手を握りながら言った。右手には、俺もたまたま知っている器具を握っている。


「魔術と縁のない人々は、いつあなたたち魔力持ちが暴れ出すかとビクビクしながら日々を生きています。あなたたちは、一般人からすると魔族や魔獣と変わらないんです」


 そう言って、俺の前に立ったマースがふう、と溜息を吐いた。


「それは同情するよ。確かに恐ろしいよな。俺も今あんたの持ってるそれに、大概恐怖してる」

「これ、結構マイナーな医療器具なんですが」

「……冗談だよな?痛いのは勘弁って言ったはずだが」


 逃げようと身体を捻る。まあ、ムダなんだが。


「さっきも言いましたが、本当にあなたが来てくれてラッキーでしたよ。聞くところによると、特級魔術師程の力を持つ魔術師は、魔力をオーラのように見ることができるそうですね。本当ですか?」

「本当だ。なんなら確かめてやろうか?まああんたには魔力無いしアレだけど」


 頬が引きつる。これは本当にヤバい。


 マースはにこりと笑い、しゃがみ込んで俺の首の枷を引っ張る。


 俺の目とマースの目が合う。そこに映る俺は、恐怖や不安を必死に笑って誤魔化そうとしていた。


「結構です。自分で確かめますから」


 そう言ったマースの口調は、相変わらず優しいままだったが、行動は猟奇的だった。


「やめろっ」


 手にした器具がヒヤリとした感触を左の目頭に伝えてくる。それをそのまま、強引に押し込んだ。


「ッッッウアアッ」


 ギュチュ、グリュと嫌な音がする。同時によくわからない激痛。その割に血はあまり出ない。抉り出したそれを片手で持ち、丁寧に切断するところは良心的だと、痛みの裏で変なことを考えた。


「協力感謝しますよ」


 立ち上がったマースの手には、俺の左の眼球が乗っている。


「っ、イッ、てぇなクソ…後で返せよ」

「出来ればそうします」


 俺の左眼を抉り出したマースは、満足そうに笑顔を浮かべて離れていく。


 さすがに切断面からは血が溢れ、閉じた目蓋の端からポタポタと床に赤く広がった。


「私は魔力の無い人間が、平和に生きていける世界を作りたいのです。その為にはまず、我々も魔力の有無を見分ける力が必要です。あなたの目はそれができる。そして私は、その力を使う為ならば魔術を利用することも厭わない」


 呟くように言い、マースは部屋の奥へ向かう。そこには俺にはよくわからない機材がならび、嫌な水色の薬液に満たされたガラスの容器へ、俺の目ん玉を突っ込んだ。


 すると、その容器と繋がったモニターに部屋の映像が浮かぶ。容器には魔術的な技術が使われていることがわかるが、今の混乱した頭ではその構造を捉えることができなかった。


「これは医療系の魔術師が使うものです。臓器移植などで取り出した臓器を保存するためのものですが、そこに擬似的な神経を繋げばあなたの目はそのまま機能します」


 薬液にぷかぷか浮かぶ俺の目が、室内の様子をモニターに映し、横たわる俺自身を捉える。俺の持つ魔力のオーラと一緒に。


「素晴らしいですね。私の思った通りです」

「なるほど。それで魔力持ちとそうじゃない人間を見分けるってわけか」

「そうです。この技術を使えば、我々は危険を事前に回避する事ができる」


 魔力を持つ俺の姿は、僅かに金色の光に包まれている。たいしてマースはそのままの姿だ。


「くだらねぇ。終わったんなら返せよ、それ」


 こんな事を考える人間の方が余程危険だと俺は思うね。


「もうしばらく貸してください。その間に、まだやりたい事がありますから」


 マースは振り返ると笑顔で言った。


 その笑顔は、今までで一番恐ろしかった。


「我々の目的は、あなたの目だけじゃないんですよ。メインはこっちです」


 そう言って、機械類のならぶ台の下、引き出しを開けて取り出したのは、採血でもするんじゃないかという太い針のついた注射器だ。


「この薬が本当に効けば、魔力持ちを普通の人間に戻す事ができます」

「は?余計なお世話なんだが」


 普通の人間に戻す。


 それは、ただの押し付けじゃないか。


 俺たちは別に、望んで魔力を持って産まれたわけではない。そしてそれが、必ずしも不幸だなんてこともない。


 危険は確かにあるだろう。結局は魔術を適切に使用するかはモラルの問題だ。


 でもそれを言い出すと、魔力のある無しに関わらず犯罪は起こるし、それに伴って死傷者が出る時もある。


 マースの考えはわかるが、明らかにやり過ぎだ。


「あなたで成功すれば、次はユイト君です。彼の両親は、息子に普通の人間として生きて欲しいと願っていますから。この会社には、そうやって家族や知人を助けたいと願う者がたくさんいます」


 それは助けるのではなく、ただのエゴじゃねぇか。


「さて、実験を始めましょうか」


 マースが俺の目ん玉を抉った時と同じように、スッと俺の前へとやってくる。手にしたクソデカい針のついた注射器から、一度気泡を抜くようにシリンジを押す。流れた液体は無色透明で、それは俺の魔力を、まるで同じ色にしてやるぞと言わんばかりだった。


 なんの躊躇いもない動作で、マースはその針を、資料室でそうしたのと同じように、俺の首にブッ刺した。


「イッ、ツ!!」


 針の痛みは、すぐに別の不快感で消えた。

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