武蔵野レクイエム

青年とホームレス

 季節が秋から冬に変わり、枯れ草で敷き詰められた武蔵野公園の樹林の中を、鷲鼻の若い一人の青年が歩いており、所々が汚れたグレーのプレーントゥーシューズで地面を踏むたびに水蒸気が揮発した枯れ葉がサクサクという、揚げたての天ぷらのような小気味良い音を立てる。


(ここでは、ダメだな……枝が脆すぎる、ロープが折れてしまう……)


 青年の手にはロープが握られており、まだ歳は30歳に手が届いていないのだが、白髪が目立ち、皺はほとんど無いのだが、酷く疲弊しており、50歳近い老人に見えるのである。


 武蔵野公園は樹々が貧弱というわけでは無いのだが、これから青年が行う行為で必要なロープを枝に括り付けても、自重に耐え切れずに折れてしまうからやめるか、と青年は首吊り自殺を諦めて、雑誌のおまけで購入したブランド物のショルダーバッグの中から、心療内科で処方された強力な睡眠導入剤を取り出す。


「兄ちゃん、何してるんだい?」


 ハスキーがかった声が後ろから聞こえ、青年は思わずうわっ、と声を上げて振り返ると、頭頂部が醜く禿げ上がった60代程の、ボロ切れと言っても差し支えない擦り切れた服を着た初老の男性が興味を持ちながら見ている。


「いや、何って……その」


「ひょっとして、自殺?」


「え、いや……」


「図星だろ、兄ちゃん。あんたまだ若いし、死ぬのは早いな。言えよ、何かあったのか?」


 青年は、自分が死のうとしているのを見抜かれて一瞬ギョッとしたが、どうせもういいかなと思い、口を開く。


「実は、会社が倒産してしまって、無職になったんです……」


「そうか……で、死のうかってわけか……」


「……ええ」


「何にせよ死ぬのは良くは無いな、なぁ、とりあえず俺のところに来い。食わせてやるよ」


「え…は、はぁ」


 青年は、社会不適合者である男と同類項になり、残飯を漁る、日本国憲法にある国民の義務とはかけ離れた生活を送るのに一瞬躊躇いを感じたが、自分はどこも行く場所がないと我に帰り、どうせ良いかなと二つ返事でオーケーする。


「名前なんて言うんだ、兄ちゃん」


「神橋……神橋富雄です」


「そうか、俺は真壁だ、宜しくな」


 それが、富雄と真壁との初めての会釈であった。


 ****


 神橋富雄は、児童福祉施設を出て、都内の高校を卒業して建築会社に就職したのはいいのだが、26歳の時に倒産してしまい、保証人がおらずどこも雇ってくれない為ネットカフェ難民をしながら日雇い派遣をしていたがその会社も倒産してしまい、瞬く間に路頭に迷う羽目になった。


 市役所に行き生活保護の申請をしたが、まだ健康で若いと言うこともあり承認されず、どうにもならなくなってしまった為、死のうと武蔵野公園にやって来た。


 武蔵野公園には、真壁と同じホームレスがおり、この公園を拠点にして履歴書不要の日雇い派遣をして生計を立てているのである。


「疲れたな……ただいま!」


 髪を短く切り揃えて、ペンキだらけの作業着を着た富雄がそこにはいる。


「お疲れさん、今日はどうだったか?」


 真壁は立派な現場作業員となった富雄を、自分に息子のように誇らしげに見つめている。


「いや、スゲェー疲れたよ、なんかな……」


「どうしたんだ? クビにでもなったのか?」


「いやな、契約社員にならないかって誘われたんだけどさ……」


「いいじゃないか、なっちまえよ」


「でも、仕事はきついし、正社員になれるっていう保証はどこにもないんだ……」


 富雄は、根がそこまで真面目ではないのか、現場での肉体労働ではなく、事務のようなデスクワークの楽な仕事に流れたいと言う邪な考えを露骨に出している。


「馬鹿」


 真壁は富雄の頭を軽く叩く。


「お前、世の中には働きたくても働けない人は沢山いるんだぞ、人並み以上に働いて、はじめて正社員になれるんじゃないか? 頑張れよ」


「う、うん……」


 でもさ、と富雄は言いたくなったのだが、本気で殴られそうになるからなんか怖いなと思い口をつぐむ。


『ドン……』


「!?」


「何だこの音は!?」


 花火のような炸裂音に、彼らは思わず周囲を見回すと、少し離れた所で火の手が上がっている。


「真壁さん!」


 仲間のホームレスが、慌てて真壁の元へと駆け寄って来る。


 そのホームレスが着ている服は所々が焼け焦げており、これはただ事ではないぞと富雄たちは思う。


「誰かが、悪戯半分で花火を使ったんだ! ここら辺にいる悪ガキがやったんだ! あいつら、ガソリンまで撒きやがった! 逃げよう!」


「たまはどうしたんだ!?」


「なんか、森の奥の方まで逃げてしまったみたいだ! ダメだ、逃げよう!」


「馬鹿! できるか! 行ってくる!」


「真壁さん! 逃げましょう!」


 富雄は森の奥へと進もうとする真壁の腕を掴もうとするが、真壁はその手を振り解き、みぞおちに拳を放つ。


「お前は社員になれ! 俺とは違うんだ! 二度とここに戻って来てはならぬ!」


 薄れゆく意識の中で、それが、富雄が聞いた真壁の最後の言葉であった。


 ****


 初夏に差し掛かった、眩しくて清々しい、若草の匂いがする武蔵野公園の森の入り口に、顎髭を蓄えた30代前半の青年が立っている。


 青年の手には日本酒の一升瓶が握られており、森の入り口を進んでいく。


(あの日からもう、10年近くが流れちまったんだなあ……)


 森の中には、当然の事ながら人はおらず、青年はここを懐かしく思うのだが、それと同時に、恩人か、昔の友人を亡くしたかのような喪失感が胸に去来する。


 生えて来たばかりの草と、そこで暮らしている昆虫や微生物をブランド物の革靴で踏み付けながら、青年はある場所へとたどり着く。


『武蔵野慰霊碑』


 1メートル程の大きさの慰霊碑の前に青年は座り、日本酒を置いて合掌する。


(真壁さん……!)


 今から約10年程前、精神に異常をきたした近所の若者達はこの公園にガソリンを撒き放火をして、一帯が火の手に包まれた。


 この事件で、この公園を根城にするホームレス達が犠牲になり、慰霊碑が建てられ、火事が起きた日になると必ず誰かが欠かさず日本酒や花束を持って現れるという。


 顎髭を蓄えてこの慰霊碑に日本酒を供えた青年、神橋富雄はこの公園にいるホームレスの元締めである真壁に喝を入れられて建築現場で勤め、あの日、猫を助けに行こうと火災現場に行こうとした真壁を止めようとした富雄はみぞおちを殴られて意識をなくし、気がついた時は救急車の中であった。


 その日を境に彼等は離れ離れとなり、契約社員から正社員になり、社長に働きぶりを称賛されて課長にまで上り詰めた富雄は方々に手を尽くしたが真壁の生死が分からず、途方に暮れており、もう死んだのだろうなと半ば諦めて、毎年、お供物を持って来ているのである。


「真壁さん、行くからね……」


 富雄は立ち上がり、後ろを振り返ると、そこには、顔に火傷の跡がある初老の男が立っている。


「……真壁、さん!?」


「富雄、か……!?」


「!? お化けじゃないよね!?」


「あぁ、生きてるぞ!」


 真壁は、身なりは小綺麗にしており、真新しいシューズをぶらぶらとして、自分が幽霊でない事を富雄に示す。


「どうしたんすか!? 一体今まで!?」


 富雄は、探偵の力を借りても消息が掴めなかった真壁を見て、驚きの表情を浮かべる。


「あ、いやな、俺あの火事の日にたまを助けに行ったんだが、なんかな、悪ガキがボウガンでたまを射抜いてて即死だったんだよ。火の手が及んでてやべえと思って逃げたんだが、逃げきれなくてな、大火傷を負ってしまって、つい最近まで病院でリハビリをしてたんだよ。火傷の後遺症が完治して、たまの供養に来たんだ。お前、スーツ着てるって事は社員になれたのか?」


「ええ! 社員になって課長になったんすよ! 真壁さんは今一体どうやって暮らしてるんすか!?」


「生活保護を受けて暮らしてるよ、俺身寄りがいなくて一発で受給できた」


「そうですか、良かったですね。……これから、飯でも食いに行きませんか?」


「あぁ、そうだな……またな、たま」


 真壁は慰霊碑にワンカップの日本酒を置き、富雄と共に森の外へと歩き出す。


 森林の隙間から漏れ出す太陽の光が、彼等を照らしている。

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