第7話 さよならを覆す最高の方法:彼女の話
(来てしまった……)
定時ダッシュをきめたその足で、帰り道とは真逆の電車に乗ったのは30分ほど前のこと。普段、舞台にとんと縁のない人間でもニュースなどで時折目にする機会のある劇場の前で、足が竦んでしまう。
渡されたチケットはきちんと鞄の中に入っている。出勤前にも、昼休みにも、退勤前にも、何度鞄を覗いても霞のように消えてしまうことなく、チケットはきちんと収まっていた。
開演時間は20分後。小走りに駆け込んでいく客――軽くSNSで調べたときにもファン層に女性が多いと思ったが、案の定、客層も女性が多い――を見送りながら、入るかどうか決めかねて、立ち尽くしていた。
4時間後、開演3分前にやっと踏ん切りをつけて入った関係者席から、彼女――
(ここ、たしかあのカレー屋さんが近いんだよねぇ。まだ開いてるかな)
舞台の上の敦史のことを極力思い浮かべないように、
さて、と建物の出口に向かって踏み出した背を、ピンポンパンポーン、と、退場アナウンスを遮ってショッピングモールなどでお馴染みのアナウンス音が突き飛ばす。
「お連れ様のお呼び出しを申し上げます。
「⁉」
反射的にびくりと肩を揺らしてしまったのは、仕方のないことだろう。同名の人間はともかく、同姓の友人にはあまりお目にかかったことがないが、お連れ様も何も今日は一人で来たわけで――となれば、お連れ様と称して呼び出しをかけるような人間の心当たりは一人しかない。
ぎゅ、と鞄を握る手に力を込めて、音羽は前を見据えた。建物の出口までは5メートル程度だろうか。
(三十六計逃げるに如かず。帰ろう。帰る。絶対帰る)
さすがに走るのはよくないだろうが、とそれまでよりも少し歩幅を広げて歩き出した矢先、同じタイミングで隣の席を立って前を歩いていた二人が動きを止める。振り向いた彼らは、こちらを認めると、マスク越しでもわかるようはっきりと、にこり、と笑った。これが自分に向けられたのでなければ、単純に顔面つよつよカップルと思うのに、と半ば諦めの境地で視線を返せば、さらに深まる笑み。
ただ笑むばかりで、話し始めない彼らを、怪訝そうな表情を浮かべた人々が通り過ぎていく。中には音羽に相対する二人を見て、口に手を当てる人もいる。つまり彼らも
どうしたものか、と迷っているうちに両側から伸びてきた手に腕を掴まれ、おいで、と無言で誘導される。
「やっぱり君が音羽さんだったのか」
「ごめんね、ちゃんと連れてきてって頼まれてるんだ」
歩くうちにふかふかの柔らかい絨毯の床からコンクリート打ちっぱなしの床に変わり、そうして、どうぞ、と示されたドアには、敦史の名前があった。
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