第3話 願いをさえずる鳥のうた : 彼女の話
カラスが鳴いている。一羽であれば「カア、カア」と聞こえるものも、何羽も一斉に鳴いていればむしろ「ガア、ガア」と聞こえるその声に、PC画面の右下、時計表示を見てげんなりする。
(今日ももうこんな時間か……)
定時まで1時間を切ってしまった。終わりそうにない仕事と、時間通りに帰らなければならないような制約も用事も特にない身。となれば、先手を打っておくに限るであろう、と形ばかりの残業申請をして、いつも通り定時間際に始まった上司の行きつ戻りつする話に相槌を打ち、区切りをつければあら不思議。定時からぐるりと針が2周していた。
形ばかりではあるが申請していた時刻ではあるのだし、と勤怠システムで打刻して、PCを落とす。まだまだ居残るつもりらしい上司に挨拶をして、帰路についた。
(今日は角の八百屋が安い日だっけ)
狭い代わりに各駅停車で3駅、特急で1駅、なんとなれば電車に乗らずとも徒歩30分の住まいまでに点在する冷蔵庫、もとい、商店街を思い浮かべ、電車に乗る。そこそこに混んでいて座る席はないが、立つ場所を選べる程度にはまばらだ。たかが3駅、されど3駅。
壁に寄りかかって取り出したスマホに、新着通知を見つけて、首を傾げる。自慢ではないがさほど広くはなく、かといってお互いマメに直接連絡をとるような交友関係はないし、実家のLINEグループもさほど活発ではない。誰から連絡がきても等しく「想定外」ではあるのだが、それにしても
(連絡先、交換してたっけ……?)
画面に踊る幼馴染の名前に、傾げた首を元に戻せないままメッセージを開く。
『何時頃帰れそう?冷蔵庫にカレー残ってたの見つけたから、出汁足して火入れた。そばもうどんもあるから、食べたい方教えて』
傾げた首が、肩につく。二度見しても、内容は変わらない。
落ち着こう。落ち着きたい。落ち着けば。活用してみても、頭が落ち着く気配はない。それどころか想定外を飛び越えてむしろ想定可能であった内容に、混乱しすぎて頭が灼ききれそうだ。
「ええええぇー……?」
思わず出ていたらしい声に、周囲からちらと目を向けられて、慌てて口を噤む。
『あと15分。そばがいい』
混乱冷めやらぬままなんとか返すのと同時に、最寄り駅でドアが開いた。降りてしばし呆然として、頭を振る。
寄り道は必要なくなったらしい。
ひとまずわかったのは、それだけだった。
「……ただいま?」
「おかえり。いまちょうど茹で上がった。エスパーだね?」
「エスパーはそっちじゃない……?」
予想通りとはいえ、外からしか解錠できない鍵もきちんと施錠されていたことと玄関にない靴に、思わず疑問が口をついて出る。
おや、と瞬いた瞳に、しまったと口を噤む。いつも忽然と現れ、そして消える理由には、触れないようにしていたのに。
「や、な、なんでもない」
「それは残念」
かけらも残念さをうかがわせない軽い口調に、ほっと息を吐く。視界の外の心底残念そうな表情には一切気づかないまま、手洗い、うがいをして、部屋着に着替える。
幸か不幸か、ノーブラの折に急に現れたときにも、何度同衾しても、このかたずっと何も起こらなかったおかげで、服装的には警戒度0である。なお、一連の動きの音を聞きながら台所とローテーブルを行き来する幼馴染は、一層残念そうな表情を浮かべていた。
ローテーブルについて、片づけられた状態に目を瞠り、次いで、カレー蕎麦の丼の横にならぶ小皿に目を瞬かせる。たまにお菓子を食べるときくらいしか活躍させていなかったファンシーな小皿に載るのは、柔らかく煮られた人参と椎茸、高野豆腐だ。
「付け合わせもあるの……しかも飾り切りまでしてあるし。今日ってなんかお祝いの日だっけ?」
「ううん。カレー蕎麦だけだとちょっとかなと思って作った。勝手に食材使ってごめん」
「や、無駄にするよりずっといいし、美味しそう。ありがとう」
「よかった。じゃぁ、いただきます」
「いただきます」
挨拶はするもののスマホを構える姿を横目に、食べ始める。うん、やっぱり2日目のカレー最高。あとSNSは明日まで開かない。絶対開かないって誓うぞ、うん。
咀嚼しながらの決意に気づいているのかいないのか、満足げにスマホを置いた彼も箸を持った。ずるずると蕎麦をすする音が部屋に響く。大通りから一本裏手のマンションは、喧騒からは遠く、時折虫や鳥の鳴き声が聞こえる程度。
(でもいつもはこんなに静かじゃないんだけどな……)
と、湯呑を手に部屋を見まわして、気づく。ひとりのときにはつけているテレビが、今日はただ真っ黒な画面になっていた。
得心して隣の辺に座る幼馴染を見れば、「ん?」とばかり、首を傾げられる。テレビでは阿呆のような企画でもなんでもどんとこいキャラとして各方面で暴れまわっているが、整った顔をしていて、そうして何より、無駄にタイミングよくやさしいのだ。このひとは。
(早く彼女できるといいねぇ……)
なんでもない、と首を振って返し、丼に向き直る。
窓の外から響く鳥の鳴き声に、彼の幸せを祈った。
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