不意に吹いたそよ風

 私の事を引き込んだ、いや助けてくれた白衣を着た女性。話を聞く限り、彼女はここの研究員らしく大人しそうな格好をしており、漆黒の前髪が伸びていて目が見えない。




「助けてくれてありがとうございます……」




 私は出された椅子に座ると、もう一度目の前の彼女に礼を言った。


 しかし、彼女は無愛想なようで、無表情でコンピューターを弄っている。まるで私はいないものにされているようで、少し寂しく感じてしまう。




『この女性……何を考えているか分からないから、気をつけなさい』




『う、うん。分かっているよ……』




 取り敢えず、放置されているこの状況をどうにかしたい。だけど何度話しかけても彼女は無反応で壊れているロボットのようだろう。


 どうすればいいのか? 私が頭を抱えて苦悩していると突然物音がした。それは彼女が机の上にコップ置いた音であり、中には熱々のコーヒーが注がれている。




「どうぞ……」




 コップは二つあり、その内の一つは私の前へ。飲んでいいという事なのだろうが、謎の多い人物である彼女が出したコーヒーだ。何かと警戒をしてしまい毒でも入っているのでは? と疑ってしまう。




「飲まないの?」




「え? あ、いただきます……」




 何故か切なそうな表情をしている彼女に吃驚し、ついいただきますと言ってしまった。


 そう言った以上、飲まないといけないだろう。それに彼女に敵意のようなものは感じられないし、何よりも飲んで欲しそうな視線を送ってくる。




「ごくっ……苦い……」




 そのコーヒーはブラックで、眠気が吹き飛ぶような苦さをしている。しかし、香りはとても良くて、良い豆を使っているのだろうと思った。




「ふー……ふー……」




 ふと彼女を見ると、彼女は机に置かれたコーヒーを必死にふーふーしており、猫舌なのだろう。そう思いつつも私は改めて部屋の中を見回す。


 大きさは私の部屋二つ分くらいで、どちらかといえば広い部類に入るだろう。しかし、中央には長方形の大きな机が置かれており、壁際にはぎっしり棚や冷蔵庫? が敷き詰められて実際に人間が立てる場所は限られてしまっている。




『此処はマストの研究所なのかな?』




『恐らくはそうでしょうね』




 私の疑問に玲奈ちゃんは同意する。


 それもそうだろう。先程の厳重なセキュリティといい、この部屋はとても近未来的で如何にも科学者が居そうな内装をしている。机の上に置かれたコンピューターには何かの設計図が映り、棚の中には様々な薬品が並べられているのだ。




「え、えっと、貴方の名前は何ですか? 私は神楽刃文音と言います」




「…………」




 私の発言に自己紹介をしていない事に気がついたのか、彼女はハッとした表情すると流れるように部屋のとある一角を指した。




「花?」




 そこにあったのは花瓶に添えられた白から紫にかけてグラデーションが掛かった綺麗な花。その花はあまり見ない類のものだったので珍しいと思ったが、肝心の彼女が何故それを指したのかが分からない。




『あれはデンドロビュームね。そう呼んでほしいんじゃないのかしら……』




『そうなの?』




 彼女はマストの研究員。きっと何か特別な理由があって名前が名乗れないのだろうか? 真相は分からないが、取り敢えず私は彼女をデンドロビューム。通称、デンと呼ぶことにする。




「えっと……じゃあデンドロビュームからとってデンさんって呼ぶね?」




 私はその事をデンさんに伝える。


 するとデンさんは満足そうに笑みを浮かべて頷いた。その時、長い前髪から見えたデンさんの瞳は輝いていて、まるで宝石のように綺麗で見惚れてしまう。




「文音……」




「はい?」




 私は辛い物や苦い物、それに酸っぱい物も好みではない。その中でも苦い物は特に苦手で、ブラックコーヒーなんて生まれて片手で数えられるほどしか飲んだ事が無い。


だが、出された物なので飲まないと失礼ではないか? 


 しかし、生憎にも出されているのは正真正銘苦手なブラックコーヒー。私がどうしようかとコーヒーに映った自分とにらめっこをしていると不意にデンさんは私の名前を呼ぶと共に手を差し出して来た。


 まるで何かを渡せと言っているようだが、心当たりはない。だから私が小首を傾げているとデンさんはとある紙を渡してきた。




「えっと……対鏡結界装備開発計画?」




 その紙は数十枚の束になっており、表紙には『対鏡結界装備開発計画』と大きな文字で書かれている。




『ちょっと見せてくれる?』




『う、うん……』




 私の察しが悪いのか? それとも玲奈ちゃんが優れているのか? 何かに気がついたように玲奈ちゃんは私から身体の主導権を受け取るとページをパラパラと捲り始め、五分くらいを掛けてあっさりと読み終えてしまう。




『分かった。この目の前の人物はイデアの開発者のようね。それも根本を作り出した、いわば天才ね』




「え、ええええ!」




 玲奈ちゃんが出した答えに、私は吃驚して声を上げてしまう。


 目の前のデンさんがイデアを開発した重要人物であり天才? とてもそんな風には見えず、今の彼女はただ小首を傾げて頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。


 それもそうだろう。玲奈ちゃんの声が聞こえないデンさんから見れば、私が叫び出したように見えるのだ。




「はい……」




 また手を差し出してくる彼女。微妙に先程とは雰囲気が違い、どこか苛立っているようにも思える。


 それは恐らく私が目当ての物を渡さないからだと、何となく分かるが問題なのはその目当ての物だ。彼女は私に何を求めている? 手渡しできる物という事は確実だが――




「もしかして……私のイデアですか?」




 考えを巡らせていると脳裏にびびっとした電流のようなものが走り、それは閃いた感覚。そう、デンさんは私のイデアを欲しているように思えたのだ。




「そう……」




 今度は頷くことなく、言葉で肯定をしてくるデンさん。


 やっぱりそうか……などと私は一息吐いてしまったが、直ぐに新たな問題に気がついてしまった。それは彼女が私のイデアを手にしたとして、どうするのか……だ。


 仮にイデアを没収されたとしよう。そうなると私は玲奈ちゃんと離れ離れになり、最悪の場合は一生会う事が出来ない。




「これは私の大事なもので……えっと……だから渡したくないっていうか……」




 渡す事はしたくない。と強気で言う事が出来ず、私はしどろもどろになってしまう。


 私はデンさんに助けられた身であり、命を握られているようなもの。だって此処はマストの研究所なのだ。彼女が連絡をすれば、直ぐに私の周りには敵で溢れかえるだろう。そんな彼女に強気にものを言う事なんて無謀だ。




「大丈夫。シンパシーイデアは元々私が開発したもの……」




 何が大丈夫なのか? デンさんが開発したからどうしたのか? 私の中に疑問が木霊し、どうしてもデンさんにイデアを、玲奈ちゃんを渡す事を心が拒絶してしまう。




「サンプルがないから少しだけ見たいの……お願い……直ぐに返すから……」




「…………」




 デンさんの瞳を見ていると必死なのが伝わってくる。きっと何よりも研究が大好きなのだろう。そこに邪悪な感情は感じられず、そもそもそういった感情があるならば脅してきているだろう。


 それをしないという事は彼女が優しいという事。だから、そんな彼女にならイデアを渡してもいい。ほんの少しなら……と、そう思えた。




『渡してもいいかな?』




『貴方の判断に任せるわ』




 玲奈ちゃんはそう言ってくるし、私は目の前の彼女を信じてもいいと思っている。


 私が疑心を露わにして、彼女の瞳を見つめたとしても揺らがない研究心。それは嘘ではなく、本当だと信じてみたい。この人が悪い人でない事を。




「どうぞ……絶対に返してくださいね」




「分かってる……」




 私がイデアを差し出し、受け取る彼女。その表情はとてもいきいきとしていて、本当に研究熱心だろう。邪悪だとか、優しいとか、それ以前に純粋な子供のような気がして、実際に目の前の彼女は既にイデアに夢中になっている。




『そういえばイデアを渡したのに変身が解除されないね』




『ええ。確かイデアから数十メートル離れたら、リンクが切れる筈よ。まあ、つまりは私ともこうして話せなくなるわ』




『そうなんだ……』




 いわばイデアは玲奈ちゃん本体と言っても過言ではない。もしイデアを無くしたり、または壊したりしたら……


 そんな事を考えると恐怖のあまり身震いをしてしまう。


 私にとって玲奈ちゃんは希望であり、私の全てと言ってもよく、とうの昔に玲奈ちゃんに全てを捧げているつもりだ。




「凄い……」




「え?」




「こんなにもリンクが深いイデアは初めてみた……」




 目を輝かせて言ってくるデンさんに私は圧倒されてしまい、飲んでいたコーヒーを零しそうになる。


 リンクが強いという事はそれほどに絆が強く、深く、信じ合っている。それを指摘された私は何だか恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを感じていた。




「貴方が契約したのは……」




「……? どうしました?」




 デンさんは何かを察したかのように言葉を途中で止めるので、不思議に思った私は聞き返してしまう。が、彼女はそれ以上何も語らずに、ひたすらにイデアの観察に戻る。


 その手つきは大人しく、とても研究しているようには見えず、ただ猫を可愛がるかのように膝の上に乗せて撫でているだけだ。それをする事によって何が分かるのだろうか?




「ありがとう……」




 やがてデンさんは満足したようで、興味深そうに頷きながら礼を言って、私にイデアを返してくる。それを受け取った私は安心感から深呼吸をした。


 何かしらの機械にかけられたり、もっと長時間の間イデアを研究されると思ったが、実際は手で触れただけ。しかも時間で言えば五分ほど。それはとても短い時間だったが、きっとデンさんは何かを得られたのだろう。じゃないとこんなに澄ました表情をしていない。




「ごくごく……ふぅ……」




 漸くコーヒーとの戦いを終え、私は改めてデンさんを見た。が彼女はコンピューターを物凄いスピードで弄っており、タイピングの速さはまるでハッカーのようだ。とても話しかけてはいけないような雰囲気をしているので、私は自粛する。


 さて、これからどうすればいいのか? 元々はこの鏡結界を破壊するのが目的だったが、目の前のデンさんを見ていると破壊出来ない。しかし、人が犠牲になっているかもしれないと思うと破壊しないといけないような気もして、私は頭がこんがらがって痛くなった。




『取り敢えず、情報収集をしたらどうかしら?』




『そ、そうだね……』




玲奈ちゃんの言う通り、第二の目的である情報収集に徹するのがいいだろう。そうする事によって色んな事が分かり、鏡結界を破壊するべきか、否か、分かる筈だ。




「デンさん……少し聞きたい事があるんですが……」




 思い切って話しかけてみた。するとデンさんは手をピタッと止めると、椅子を回転させて私の方に身体を向けてくる。私の質問を聞いてくれるのだろう。




「此処についてなんですが――」




 私がこの鏡結界、いや研究所について詳しく尋ねよう。そう喋り出した時、事態は急変した。


 部屋の中に耳を劈くように激しいサイレンが鳴り響き、壁に付いていた赤いランプが点いたり消えたりを繰り返している。明らかに異常事態を示しているようで、私はデンさんに不安を交えた視線を送った。




「よいしょ……」




 しかし、目の前の彼女は慌てている素振りは見せず、冷静にサイレンを切るとパソコンのモニターを私に見せてきた。




「これって……」




 そこに映っていたのは恐らくは研究所の内の何処かであり、防犯カメラの映像だろう。動画の中はとても広い空間があり、そこでマストソルジャーたちが戦っている。鏡結界のヌシを相手に、怯まずに勇ましく戦っているのだ。




『見た感じ、イデアを持っている者はいない。このままじゃ危ないわよ?』




 玲奈ちゃんの声を聞いて、私はマストソルジャーたちの武装を確認するがイデアを手にしている者はいない。しかも劣勢のようでじりじりと死人が出ているようだった。




「行かないと!」




 私は立ち上がる。相手がヌシだとして、それが暴れているとしたら、イデアを持つ者として倒さないといけない。例えそれがこの研究所を潰す事となったとしても、仕方がないだろう。




「デンさん! 私、行ってきます!」




 返事を聞かずに私は部屋から飛び出した。その時、思い返せば彼女は口を開けて何かを言っていた気がしたが構っている暇はない。少しの時間も惜しいのだ。




「あ! お前は!」




 部屋を飛び出すと丁度マストソルジャーと鉢合わせをした。


早くヌシを倒さないと犠牲者が増えるというのに足止めは勘弁だが、相手は戦う気なのか流れるように銃を構えた。が、発砲する事はなく、大きく舌打ちをする。




「今はお前に構っている暇はない!」




 そして、そう言い残すと廊下を走って行く。きっとマストソルジャーたちは侵入者の私よりも鏡結界のヌシの方が優先なのだろう。


 私はその兵士の後を追った。

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