運命は突然に

 あの日、天候は曇りだった。大空を覆う分厚い雲は迫力があり、それこそ人の心さえ閉ざしてしまうような天気。雨が降り出しそうな雰囲気もあり私、神楽刃かぐらは文音ふみねは足早に下校していた。


 私が住んでいる地域は都会でも、田舎でもない微妙なラインの場所。良い所を上げるとすれば海と山がどちらも近くにあるという子供が喜びそうな立地だろう。実際、私はまだ高校一年生であり、成人はしていない故か、自然豊かな場所は好きだ。




「ふんふーん……」




 鼻歌を奏でて、スキップをする。傍から見てもご機嫌な様子が分かり、そんな子供のような私は近所にある、割と有名な海へと向かっていた。


 それはただ単純に海という自然に好奇心が湧いただけではない。とある人物とそこで待ち合わせをしているのが要因であり、それがご機嫌の理由だった。




「あ、玲奈ちゃーん!」




 水平線の果てに小さな島が幾つか見え、いつもよりも波が荒れて底が見えないほどに濁っている海。それが一望できる砂浜へ辿り着いた私は視界に目的の人物を捉えて、大きく口を開けて叫んだ。




「あら、文音……今日は私の方が早かったようね……」




 その人物は振り返って私を見つけると、黒縁の眼鏡をくいっと押し上げてから優しく微笑む。


 病的な青白さではなく、あまり日に当たっていない雪のような白い肌。その上に浮かんだ桃色の形の整った唇に、ぱっちりとした睫毛が生えた切れ長の目。ラベンダーを彷彿とさせる淡い紫色の髪は二つの三つ編みを作っており、腰まで伸びている。それと同じ色の綺麗な瞳はまるでアメジストのようで、頬を赤らめた私を映していた。




「玲奈ちゃん! 会いたかったよぉ!」




「わ! 急に抱き着かないで!」




「一緒に登校できなかったし、休み時間は忙しいみたいだったし……今日、初めて私と玲奈ちゃんが会ったんだよ!」




 私は嬉しさから抱き着いた人物の名前は結崎ゆうざき玲奈れいな。幼馴染であり、私の親友でもある彼女はとても可愛らしく、これを綴っている今思い出しても恍惚としてしまう。体型は痩せていてモデルのようにスタイルが良い彼女は一見大人しそうに見えるだろう。


 いや、それは強ち間違ってはいないのだが、実際の彼女はそんな見た目とは裏腹に常人かと疑う程に強い。今まで通ってきた学校全ての成績はトップであり、テストは毎回百点しか取らない。運動神経も抜群で、小学生で跳び箱十段はお手の物。勉強でも、運動でも、トップに君臨し、物覚えが早い彼女に身についた渾名はスポンジ。その名の通り教えた事をいとも簡単にものにしてしまうからであり、そんな彼女が県内で有名になるのは必然的で正に才色兼備という言葉が似合う人物だ。




「ちょっと……いつまでくっついているの? く、苦しいわ……」




 照れているのか玲奈ちゃんは顔を赤らめていたが、私はそれを指摘する事はない。それほどまでに間近にある玲奈の整った綺麗な顔を見惚れてしまい、つい我を忘れてしまっていた。




「文音?」




「……あ! ご、ごめんね?」




 玲奈ちゃんから漂う感覚を擽られるかのような甘くて良い香りに、幼い頃を思い出させる母のように優しい体温。見惚れた後、胸に顔を埋めてそれを堪能していた私だったが身体を揺らされた事により我に返り、慌てて玲奈ちゃんから離れた。


 この時の私は本当に甘えん坊だっただろう。事あるごとに玲奈ちゃんを頼り、玲奈ちゃんのくっつき虫と言っても何の否定も出来ず、依存とも呼べる。尤も親がいない寂しさを彼女と一緒に居る事で気づかないようにしていただけかもしれない。


 だけどこの好きという気持ちは今も昔も変わらずに、私の心の中に深く刻み込まれている。いや、好きだなんて陳腐な言葉で終わらせるつもりはない。私は玲奈ちゃんを愛しているのだ。世界中誰よりも、一番玲奈ちゃんを想っていると断言できる。


 しかし、この気持ちを伝える勇気は当時の拙くて奥手な私にはない。何故なら、確実に玲奈ちゃんを困らせてしまうだろうし、何よりも同性同士だ。普通は異性に向けられる筈の意識を幼馴染の彼女に向けているのは狂っている。それ故に関係が壊れるのを懸念し、私はずっと自分の気持ちを殺してきた。




「じゃあ、早速帰ろう!」




「そうね……」




 私と玲奈ちゃんは手を繋ぐと一緒に下校する。家が近所なので、私と玲奈ちゃんは毎回学校近くの浜辺に集合してから一緒に帰っており、それは私の至福の時間でもあった。


 歩幅は計らずとも合い、繋いだ手からは生温かい心地よさが感じられ、隣を一瞥すると真っ直ぐ前を見て歩く凛々しい玲奈ちゃんの横顔。それを見ているだけで私の脳内は蕩けるかのようにボーっとしてしまう。


 浜辺から家へまでの帰り道、私と玲奈ちゃんはいつも最短ルートで帰る。普通ならばそれなりに活気のある商店街を通り、交通量が多い大通りに出てから住宅街に入って行くのだが、私たちはいつも麓を沿うようにして帰っていた。


 だから人気は少なく、通り道にある建造物は木造の家と古びた神社。それと駄菓子屋や自動販売機といったものだけで、それがまた良い。まるで世界に私と玲奈ちゃんしか存在しないように錯覚し、乙女チックな妄想をしてしまう。




「今日は天気が悪いわね」




「あーそうだね……」




 ふと空を仰いで言った玲奈ちゃんは何処か不安そうで、私は同意する。


 早朝はこれでもかという程に晴れていて、天気予報でもずっと晴れだと言っていた。だけど、何故か海は荒れ果てて、雨が降り出しそうな勢いで曇っている。まるでこれから嵐が到来しそうな勢いで心の中が不安になる。


 私は嫌な予感を覚えていた。まるでこれからたいへんな事が起こってしまいそうで、大事な物が無くなってしまうようで、ただ不安感から玲奈ちゃんの手を強く握った。


 それは当たって欲しくなかった。このまま無事に帰りたかった。だけどこの時、確かに運命は動き出していて、誰にも止められない。




「あれは何かしら?」




 空のどこかを指した玲奈ちゃん。当然、私はその何かを探して同じように空を仰いだ。


 そこには信じられない光景が広がっていて、私は驚愕から言葉を失った。てっきり空を飛んでいる鳥、悪くても未確認飛行物体。そういう先入観があったのだが、見事に裏切られてしまった。


 濁った川のような暗い空を気持ちよさそうに飛び回っていたのは龍だった。蛇のように長い胴体をうねうねとさせながら、雲の中を出たり入ったりを繰り返している。


 私は何度も瞼を擦ってみたが、やはり龍の姿を確認できてしまう。それは玲奈ちゃんも同じのようで、ただその龍の行方を追っていた。




「れ、玲奈ちゃん……早く行こう?」




「え、ええ、そうね」




 先程から心の中にあった嫌な予感。それは龍が現れてから顕著になった。何故なら、その龍はただ散歩をしている訳でなく、獲物を探す猛獣のように見えたのだ。


 餌食にならないために、その場から一刻も早く立ち去りたかった私は玲奈ちゃんの手を引いて帰路に就こうとする。


 その時、大空から叫び声が聞こえた。いや、雄叫びと言った表現の方が合っているだろう。兎も角、それは龍が私たちを見つけた合図であり、焦った私は玲奈ちゃんの手を引きながら走った。




「はぁはぁ!」




 その途中、振り返って見るとなんと最悪なことに龍は私達を追ってきていた。


 果たしてその龍が何をしたかったのかは未だに分からないが、きっと捕食するつもりだったのだろう。それは焦っている私でも巧まずして分かり、余計な焦燥感に駆られて足を速めてしまい、その行為は裏目に出てしまった。


 不幸な事に私は躓いてしまったのだ。原因は地面から顔を出すように生えた木の根。そもそも山の中は整備されていないので、無我夢中に走るという行為は自殺と同じだった。




「あ、あああ……」




 立ち上がろうと思ったが、視界に映ったのは此方に向かって飛んでくる龍。間合いは先程よりも近くなっており、逃げきる事は不可能だった。


 段々と距離を縮める龍の姿は今の私の脳裏にはっきりと焼き付いている。血を求めているかのようなぎらぎらとした赤い瞳に、身体は爬虫類のような皮膚ではなくて、まるで機械のようにゴツゴツとしていて色は錆びた鉄のようだった。




「文音!」




「え!」




 刹那、襲い来る龍に死を覚悟していた私を、玲奈ちゃんは押し倒して抱き締めた。すると斜面という事もあり、私達はぐるぐると何度も回転しながら転げ落ちてしまう。


 回転する視界の中、私は必死に龍を捉えようとしていると急に浮遊感に襲われた。まるで空中に放り投げられるような感覚で、背筋がゾッとした。




「あっ……」




 そこで私は思い出した。転がった先には小さな崖があるのだと……


 いくら小さな崖だと言っても高さは何メートルもあるので最悪死んでしまう。ああ、神様はなんて無慈悲なのだろう。




 ただ玲奈ちゃんと幸せな学校生活を送っていただけなのに、一体私が何をした? 




 世界がスローモーションに感じられ、ただ理不尽な神様を恨む。そして、時が経つと重い何かが落ちる鈍い音が耳朶を打った。


 言わなくても分かる。それは私と玲奈ちゃんの身体だ。地面を転がった事により擦り傷だらけの身体は女の子なので華奢だ。重い衝撃に耐えられる筈がなく、激痛が身体を襲った。




「はぁはぁ……」




 強く頭を打ってしまったのか朦朧とする意識、ただキーンとした頭に響くような耳鳴りだけを感じる。


意識を失う直前、視界に映ったのは空中を旋回する龍に攻撃を仕掛けている剣を持った何かだった。

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