掌の言葉

一日、という単位は崩れて溶け、前後の日と区別がつかなくなった。太陽が昇り始め、人々がそうするから僕も目を覚まし、暗くなれば誰かの真似ごとのように家路につく。僕は僕の後ろから、コントローラーを握って自分を操作していた。人工太陽管理機関の人間、あの頃の僕。


人のために人を殺す仕事。


世界のすべてが僕に無関係に思えてくる。辺りは花束のような感情とは最も遠い無関心で充満している。世界が、人間が、僕を綺麗に避けて流れていく。仕方なく僕に与えられた空間はぱっくりと裂け、暗闇になって僕を飲み込もうとする。何もしたくない。何もできない。アルコールで体を満たして浮遊していたい。その穴に落ちてはいけない。嘔吐。不純なものたちが流れていく。僕はそれで浄化されていると思った。しかしいくらでも不純物は僕から分離していく。取り除かれるべきなのは僕そのものではないか?この世界の不純物、不要な存在。僕はその考えを振り払うためにさらに酒に溺れていった。


僕は機械のように日々人を生贄として差し出すことに限界を感じていたのだ。人工太陽管理機関の仕事。この国をかんかんと照らす人工太陽の生命維持のために、人の命を犠牲にする仕事。大切な仕事。大切だから許されるのだ。何人も、何人も処理する。彼らは身寄りのない一人ぼっちの人間。罪を犯した者、ホームレスの者。この国には必要のない者たち。だから犠牲になってもいい。僕は必要とされている。彼らとは違う。


息が苦しくなる。


誰から許されるんだ。国が許せばそれでいいのか?誰にとって太陽は大切なんだ?一体何人分の人生で、僕は金をもらいそして飯を食って生きているんだ?


僕という人間の記録。


僕は平凡な家庭で特記すべきような過程もなく歳を重ねた。思い出そうとすればいくつかの時代の自分の像が浮かんでくる。身長は少しずつ伸びていき、あるところで伸び悩み沈黙していた。それだけあればそこそこの人間を見下ろせるから不満はない。僕のいくつかの時代。その都度少ないながらも友人がおり、その都度ひとりの好きな子がいたような気がする。


母と父と兄がいた。僕が生まれる前に、すでに目の前には三つの生が漂っていた。彼らに僕は迎え入れられた。しかし僕はある時代から、家庭の中に流れる不和を感じていた。人生が始まったばかりに近い時代の頃。眼だ。兄の暗い眼。傷のついた黒いランドセルを背負って帰宅した兄。思い切るままに走ったような、斜めに伸びる切り傷。鈍く光を失った黒のランドセルと、兄の瞳の色は同じだった。見つめていたら視界が洗濯機のように回りだし、吸い込まれて出てこれなくなってしまう、そんな瞳。


「おかえり、お兄ちゃん」と、僕は言うだけ。それに兄は頷くだけ。


長い間、兄の体や持ち物は日記帳のように空白に傷をつけて帰ってきた。その傷から滴り落ちるはずの赤い血が、居間の安らかな電灯の光と混ざり合って、その場に居合わせる人間の皮膚にざらつく緊張感を与えていた。兄はいつも黙っている。「なんでもない」と、地面に降ろされた視線で語る。兄の沈黙。それは、誰かに打ち明けてしまえば、事態をスイッチのオン・オフのようにあっさりと光が差すほうに転換させることができるかもしれないという期待と、自分がいじめを受けるに値する人間だという事実を認めることになるという恐怖が入り混じる沈黙だった。


両親は我が子のそうした崖に立つ状況に気付いていた。母は空き巣に荒らされた部屋を目の当たりにした哀れな人間のように、空虚な呼びかけをするだけだった。母が彼について何かしてやれたことはなかったと思う。部外者と化していた僕は、冷たい風の吹く食卓の様子と自分の存在に居心地の悪さを感じていた。


兄を支えていたのは父だ。


仕事でいつも帰りの遅かった父は兄に対して何も言わなかった。父はいつも仕事に出かける朝に、兄の頭に手を置いた。そして「行ってくる」とだけ言って、外から差す光の中に消えていくのだ。兄は黙ってそれを受け入れていた。


その掌が、父から兄へのメッセージだったのかもしれない。そこには言葉では伝えられない力が宿っていたような気がする。口数の少ない父の、今までの人生で形作られてきた歴史の断片。兄の頭に置かれた武骨な手が、ロープとなって彼の小さな心臓につながっていた。


兄は刻まれ続ける新たな傷の生活に耐えた。決して折れることはなかった。ようやく高校に上がる頃には苦痛の日々も収まり始めた。母は安心して愉快そうに笑う。軽い冗談なんかを投げてみながら。


僕ら一家の転機。それは僕が高校二年生の時。兄は大学に入学した。そして、まるで一つの大きな役割を終えたように父は病気で亡くなったのだ。桜が散る頃だったのを覚えている。それから、人気のない夜の公園で兄と二人で風に流れる桜の花びらを見ていた。兄は静かに涙を流していた。


こぼれる涙と一緒に、父の掌から授かった「何か」も抜け落ちていったのかもしれない。彼が今まで受けてきた傷のどれよりも深い穴が僕には見えた。暗い影がそこに落ちていた。


やがて兄は僕と母を残し、この世を去った父を追いかけるように消えてしまった。

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太陽が昇らない国 藤ゆら @yurayuradio

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