汚れた足跡
僕は目を開いた。棺桶の扉を内側から開けたように覚醒した。棺桶の外は別世界。くたびれた顔のサラリーマンが大きな口を開けた駅から吐き出されている。彼らは家路を急ぎつつもどこか上の空の様子。帰る場所が心身を癒す場所であるとは限らない。屋根があろうとなかろうと、眠る時にふと「どこかに帰りたい」と願う夜がある。どこに帰りたいのだろう。どこに戻りたいのだろう。幸せなんか考える必要もなかった頃へ?その問いに夜は何も言わない。人々は列車のように向かってくる時計の針を両手で押し戻そうとする。だが両手は傷つき血にまみれ、諦めて明日を受け入れようと目を閉じるのだ。僕はそんなくたびれた人々の流れの中に立ったまま、突然目を覚ました。
重苦しい夢だった。一体どこまでが幻だったのか。スイミング・ピープルの兄。人工太陽を乗っ取る計画。マイ。僕の娘。本名は篠宮朱莉。彼女もホームレスとして生きていたなんて。すべてが僕の頭の中の出来事であれば。そう考えるこの瞬間も夢の中であればいい。僕は初めから存在せず、誰か見ず知らずの他人の妄想の人間でいたい。
しかし何かが僕を引き留める。あの暗闇の出来事がまぎれもない現実であるならば、僕は再び、一人きりで生を無為にすり潰していくような人間ではなくなったのだ。幼き娘の影は捨て去られていなかった。僕の中に残った塵のような記憶が、息を吹き返したように大きく広がっていった。時計が止まったままの幼い朱莉と、ホームレスになった十七歳の朱莉。二つの彼女の像が混ざり合い、双子の姉妹の二人だけの秘密のようにぴったりと一つになった。
朱莉はどこだ。周囲を見渡すが、カラスの群れのようなサラリーマンと濁った光で輝く居酒屋ばかりが視界に映る。今日も夜へ世界を明け渡す時間になっていた。気まぐれな予定によると、太陽を拝めるのは明日で最後。彼女はいない。僕とは別の場所で目を覚ましたのだろう。相変わらず大口で大衆を放出する駅、僕はその主の名前を確認する。どうやらあの暗闇の世界へとつながっていた雑居ビルの近くのようだ。朱莉にまずは会わなければ。
しかしあてはない。またあの集会所に行ってみようか。ここからだと時間がかかる。刻々と消えていく時間が砂時計のように思えて僕をそそのかす。ポケットに右手を突っ込むが煙草はもうない。どこに向かうべきか。その判断は頭のどの引き出しから引っ張り出せばよいのか。
鼻にかかる何かが腐敗している臭い。それに反応するかのようにずり落ちる汗。あの時もそうだった。
朱莉が五歳の時に僕は失踪した。当時僕はアルコールに溺れ、自分を自分と、世界を世界と認識することが困難になっていた。目に見えるものと見えないもの、すべてのまっすぐあるはずの線が歪んで、クラゲのように漂っていた。その線を掴んで、僕も風船を持つ黄色の熊のように浮かんでいた。僕は大海のように広がる不安の上をそうして流れていたのだ。馬鹿馬鹿しいと顔は笑って見せながら、深さの計り知れない海に落ちないように、必死にその不安定な線を握りしめていた。そんな日々だった。杉田は僕を精神的な病気だと言った。僕もそうだと思った。しかし僕はその病に自分がどこまで侵されていくのかを自虐的に楽しんでいた。
そのような病に蝕まれる理由はあったと言えるし、なかったとも言える。心が壊れるのは一瞬ではない。崩壊が始まってから壊れきるのがどこまでかなんて、どんな名医にも判断できるはずがない。患者はその崩壊の流れを助長させた何かを推測して述べることしかできない。僕についてはと、扉をこじ開けるように過去をさかのぼる。
僕は親友を人工太陽の生贄として殺した。恐らくそれが大きな理由と呼べるのだろう。
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