スイミング・ピープル
羽虫が耳元で飛び回る音。もしくは深夜に聞こえる冷蔵庫の稼働音。昨夜Fと対峙したときと同じ異音。光のなかで僕らはそれを聞いていた。さっきまでは真っ暗な闇に閉じ込められていたのに、今は雪の中に溺れたかのように世界は真っ白だ。「マイ、そこにいるか」と僕が聞くと、右側で彼女の震える声がした。遠くにはいないようだが姿は見えない。
白い闇。僕のなかで得体の知れない安堵が沸いていた。暖かい抱擁を感じていた。形のない生き物に包まれている感覚。震えていた僕は、火の下敷きになるろうそくの心地だった。
その火を揺らす声。
(ようこそ)
男性だ。その裏で何人もの人間が同じ言葉を重ねて喋っているように聞こえる。老人や女性の声も聞こえる。大勢の観客の前でステージに一人で立っているようだ。
(新たな住人、-お前がFとして追っていた者のお陰で、お前たちをここに呼ぶことができた)
光そのものがスピーカーのように振動している。僕らはその中心にいた。口から発せられる前の、生まれたての声の内側にいた。「あなた……たちと呼んでいいのかわからないが……Fの脱走を援助し、予備の生贄たちを殺した張本人、ということだろうか」と僕は独り言のように呟く。
(そうだ。カミヤリュウ、お前をFとして人工太陽に接近させるために)
神谷隆。水中に流れた油のように、その名前は異物として頭に響いた。しかしほどなくして、それが自分の名前であることを思い出した。油は水に溶けていく。今や誰からも呼ばれることのない名前。「なぜその名を知っているんだ。あなたはFが言っていたスイミング・ピープルという人間なのか」
(魂だけの融合体。意識をデータとして構築することで、身体を脱し電子世界を泳ぐ新たな人類だ。私たちは一つの大きな精神として存在している。今は十数人ほどの人間がスイミング・ピープルとして生きている。私たちに個人という境界はない。自己と他者は濃淡でしか区別できない。それゆえ、身体という壁によって生じる孤独や痛みもない……そして死もない。私たちは進化した人類なのだ)
「待て」と僕は意図せず遮った。
「その声……どこかで聞いたことがある。僕のことを知っている人間……まさか」
脳はスポンジのように絞られ、苦しげな音が耳の奥から聞こえてくる。記憶の影が濃くなっていき、僕の眼球の裏に現れようとしている……
(覚えがあるだろう。久しぶりだな、リュウ。私はお前の兄だった人間だ。お前が二十歳だったころに、母とお前のもとから去った。よく覚えているよ)
僕は干からびた声を絞り出すので精いっぱいだった。僕は記憶の海に落ちた。兄の失踪。居間で崩れ落ちる母の背中。その数年前に父は病気でこの世を去っていた。母は大切なものを二つも失ってしまったのだ。僕は何もしてやることができなかった。二つ目を失ったとき、母はもう立ち上がることができなかった。彼女は一緒に、生への執着を失くしてしまったのだ。抜け殻になってしまった母の、発狂して踊る様を僕はよく覚えている。数年後、彼女も静かにこの世から去った。
(私は肉体を捨てた人類を生み出すことに成功した。そうして私はスイミング・ピープルの長となった)
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