盲目の湖
人は暗闇のなかで狂気に飲まれる。
青白い光が蛍のように浮かんでいる。いくつも漂っている。それ以外は何も見えない。あらゆる星が死んだ夜のようだ。後ろでエレベーターの扉が閉まった。僕は一つの青白い光に向かって歩いてみる。辺りは僕が出てきた場所より低く、そこはすべて水溜まりになっていた。僕の足は思い切り音を立て、冷たい液体に突っ込んだ。深さはくるぶしほどまである。着水した際の音の反響具合だと、この空間はかなり広い。ずっと遠くまで青い蛍が浮かんでいるのが見える。前がどちらなのかわからないが、僕はひとまず水をかき分けながら前進した。青白い光の主は僕を避けて不気味に漂う。
水のなかには恐怖が溶けている。足はそれを吸ってどんどん重くなっていく。そもそもこれが水なのかどうかもわからない。試しに手で掬って浮かぶ光に照らしてみるが、液体は透明で光を反射させるだけだ。匂いもない。得体の知れない液体は、鈴をつけた不安に変わって跳ね回る。そうして僕は忘れていた。僕はふと、風で飛ばされた帽子を追うように勢いよく振り返った。ああ、エレベーターはどこだ。もう見えない。引き返すことはもはや不可能、ということだ。終わりのない暗闇に閉じ込められた気がして、僕は焦げ臭いパニックに染まりつつあった。
頭を振って自分のたてる水の音に意識を集中した。そうしないと僕は叫びだしてしまいそうだった。考えるな。どうせ死ぬのだ。ここで息絶えたってかまわないのさ。今は歩け。ただ、歩け。もしかすると、僕はこのまま死者の世界に行くのかもしれない。とするとこれは三途の川だ。聞いていた話と違うな、これじゃ三途の水溜まりだ。おかしな話だ。マイに会ったらこの話をしてやろう。いや、それは無理だ。だって僕はこのまま死ぬのだから。まったく、不思議なことばかり起こる。とにかく歩こう。
僕の右肩は何かにぶつかった。鈍い痛み。詰まりかけの排水溝のようにぐるぐると痛みが渦巻く。ぶつかったものに触ってみる。ひんやりと冷酷な感覚。円柱のようだ。僕の身長を追い越し高くそびえ立っている。頭上を泳ぐ青白い光。これは電柱だ。電線のようなものがどこかに伸びている。先に目を凝らすと、同じように電柱が立っていた。僕はそれを一つずつ辿っていった。氷のような液体に沈んだ足。体は死にかけの犬のように震えていた。
ぐるぐる。眩暈。夢か現かわからない。僕は妻のことを思い出していた。十年以上も前の記憶。彼女はまだ生きているのだろうか。今は他の誰かと暮らしているのだろうか。君のもとから逃げ出してすまなかった。彼女の存在が今更になって、また暗い影を落とす。僕は近いうちに死ぬんだぜ。君たちの生活を守るために。なあ、どうしてなんだ。僕が死んだと知ったら、君はどう思う。夜寝るときにでも、僕のことを思い出したりするのかい。聞いてもいいか。なぜ僕を裏切ったんだ。
太陽がなきゃ人は生きていけない。暗闇では誰も自分のことを見てくれないから。孤独だから。僕は自らそれを選んで影の世界に逃げた。孤独なホームレスになった。すべての人間が信じられなくなって何もかもを投げだした。そしてあとは惰性の人生を生きてきた。僕に誰かを救う資格はないだろう。太陽が昇らない国で、すべての人間は滅びればいい。人工太陽の餌になんかなりたくない。僕は他者を救いたくない。守りたいものはない。
守りたいもの?-なぜ引っ掛かる。すべて捨てた。でも、もし一つだけ拾えるものがあるのなら?-いくつになるだろう。背はどのくらいになった?母さんとうまくやってるか。こんな父ですまない。最後に一目会えたら。守りたいもの。
いいや。
いいや、それはまやかしだ。僕には何もない。僕は娘の存在を頭の片隅に追いやった。僕に娘はいない。あの女の産んだ子は僕の子ではない。僕は一人で死ぬ。孤独な死を選ぶ。この国を見捨てるのだ。僕は杉田の前で、ナイフで自身の首を切る想像をした。彼の驚く顔。それでこの国は終わりだ。なあ杉田さん、それともあなたが生贄に名乗り出るのかい?
進行方向の先に大きな光が見えた。それも青く輝いていた。そこは周りよりも小高い陸地になっているようだ。陸地は大きく、その終わりは暗闇の地平線とぶつかって見えない。電柱の列はまだまだその先へ続いていそうだ。ようやくこの死の湖から抜け出せると思い、僕は水しぶきを上げ急いだ。もう一時間以上も歩いていたような気がする。盲目の人間の失われた時間の感覚を味わっていた。周りには手を差し伸べる者もおらず、それは絶対的な恐怖として全身を蝕んでいた。
人影。大きな光の一部を遮る誰かがいる。「誰かいるのか」と僕は叫ぶが、かすれて弱々しい。それはマイだった。彼女は僕の存在に気付き、こちらを見ている。「なぜここにいるんだ」と僕は問う。「あなたも呼ばれたのね。私もそうなの。一人ぼっちでここで死んじゃうんじゃないかと思ってたわ」と、彼女は存外力強い声で答えた。僕は無事に硬い大地に上陸し、マイの横に立った。「もうへとへとだ。こんなところを歩かせるやつの気が知れない」
すると、僕が辿り着いたのを合図にしていたかのように、光が大きくなって僕らを包み込んだ。そして、声が聞こえた。
それはスイミング・ピープルと名乗った。
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