誘う声

今日もけたたましく蝉たちが存在を主張している。Fの焼失した夜が明けた。太陽は依然として燦々と輝いている。もう少しで真上に来るところだ。僕は捨てられた猫のようにあてもなく歩いている。汚れは染みついて、洗っても落ちないようなくたびれた猫。拾う者はもちろんおらず、ただ死を待つだけの余生。もういっそのこと、ふらりと現れた通り魔に殺されてしまった方がいい。僕は他者の生き死にと関係のないところで息絶えたい。人生に疲れ、自暴自棄になった殺人者の罵詈荘厳を聞きながら、無抵抗に生を終わらせるのが悪くない。


マイはあの後、ふらふらと僕のもとから去っていった。「一人にさせてほしい」とだけ彼女は呟いた。頭が情報の処理を放棄した様子だった。彼女は感情を失っていた。あれだけのことが一気に彼女の思考に入り込んだのだから無理もない。僕はマイのことが頭に引っ掛かっていた。彼女は無事だろうか。今はどこにいるのだろう。昨日会ったばかりの彼女が、僕の記憶のどこかのページを掴んでいた。彼女は僕を過去の淵へと誘う何かを持っている気がしてならない。彼女を探すべきだろうか。集会所に行けば出会えるだろうか。


タイムリミットは明日の夜。杉田が僕を人生の端に連れていく。大きな鎌を持った死神みたいだ。それを元上司が務めるなんて。機械のような彼ならば、死神だって卒なくこなすだろう。「決断」と杉田は言ったが、おそらく僕に決定権はない。嫌だと言おうが死は免れない。僕の命と一つの国、そんな二つを同じ天秤にかける必要もないことくらいわかる。思いつめる僕の横を、手をつないだ母と娘が通り過ぎた。親子は今日の晩御飯の話題に真剣だった。僕は黙ってその様子を聞いていた。誰か一人が死ぬことで救われる他者の人生。縁もゆかりもない、おびただしい他者の人生。その一人の死を知らずにこれからも生きていく者たち。


集会所にマイの姿はなかった。彼女が来た形跡もないらしい。髭の大男も今日は不在のようだ。僕は一人だった。そのうち彼女が現れるかもしれないと思い、カウンター席に座って冷たい飲み物を飲みながら待つ。訪れる約束された死を前に、僕は珍しく孤独を覚えていた。誰かのまなざしを欲していた。視界に映るものたちが、今日は嫌に儚く光っているように見える。そして、その中で僕の存在が弱々しく咲いているのだった。誰か、ここにいる僕を見つけてくれ―。しかし、グラスの氷が音を立てても集会所には誰も訪れなかった。


再び、あてもなく徘徊する。汗は途切れず流れ落ちていく。体が溶けて、少しずつ僕がなくなっているような気分。地面に染み込み、誰かに踏まれて形を変える。それは痛みを感じるのだろうか。そんな妄想をしていた。気付くと僕は昨日の公園に来ていた。あのおぞましい光景はお伽噺だったかのように、遊具は子どもで賑わい、それを母親たちが遠巻きに見ている。ここにもマイの姿はない。僕は近くのベンチに腰を下ろした。思考は詰まった血管のように滞留していた。耳鳴りが流れる。


やがてその耳障りな音は、脳を揺らす声に変化しだした。


(     )


僕は立ち上がって辺りを見回す。声?何を言っているんだ?洪水の奥から投げられたような声。あの子どもたちには聞こえていないようだ。僕は電信柱に目を向ける。風もないのに電線はギターの弦のように細かく震えていた。昨日の夜が思い出された。その線は僕に何かを訴えているような気がした。声は語り続ける。僕は意識を集中する。


言葉の意味は分からない。ただ声だけが聞こえる。だが僕の体は勝手に歩き出した。そのノイズに導かれ、足は軽やかに進んでいく。僕はいくつか路地を曲がり、坂を下り、踏切を渡った。しばらくすると、なんの看板もかかっていない無人らしき雑居ビル。僕はそこで足を止めた。周囲の人通りはない。カラスの鳴き声だけ。一番高いところを過ぎた太陽が、光と闇をはっきりと区別している。僕は雑居ビルの濃い影に溶けていた。そして飲まれるように中へ入っていく。


僕はビルのなかのエレベーターに乗り込んだ。すると、途端に頭のなかの騒音は止んだ。声はもう聞こえてこない。僕はエレベーターの階層ボタンを見る。八まで数字が並んでいる。どの階を選べばよいのか人差し指を泳がせていると、ひとりでに扉が閉まった。そして動き出した。どこに向かっている?どうやら僕を乗せた箱は下降しているようだ。内臓が自壊していくような浮遊感。しばらくしてそれは元の形に戻る。どのくらい下まで降りたのだろう。扉は音もなく開かれた。


僕はその暗闇の中へ足を踏み入れた。

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