生贄たち

マイの言う通り、Fは何かを呟き続けていた。誰もいない公園。辺りの音は皆沈黙に徹しているのに、彼の声は言葉として聞き取ることができない。生ぬるい風が彼の長髪を揺らしている。それに合わせ彼もメトロノームのように動いていた。規則的に不規則な光景。首の裏にF-O82という文字が見えるところまで近づいた。間違いない。杉田が提供した人物像と一致する。彼が脱走したFだ。


「君がF-O82か」


Fの動きが止まった。右に少し傾いたまま。何か聞こえてくる。どこからか音が反響して鼓膜を震わせている。笑い声だ。彼の声。何重にも聞こえる、ひきつったような笑い声。得体の知れない鳥の鳴き声のようだ。彼はそのまま、振り向かずに動かない。「君が待っていたのは、僕か」と僕は続けて質問した。すると反響していた鳴き声は止んだ。マイは恐怖のせいか、僕の後ろで声を押し殺している。


「「待ちくたびれたよ……」」


いくつもの声が聞こえる。彼だけでなく、左右からも届けられる。僕は右を向いた。公園の向こう、電柱同士から垂れ下がっている電線。ジー、という唸るような音とともに、声はそこからも聞こえてくるのであった。反対側も同じだ。「「そこの彼女も来てくれたんだね。お友達の行方が気になるんだろう」」

「 」

マイは何も言わない。彼女は僕のシャツをきつく握りしめていた。震えが伝わってくる。「君はなぜ僕を知っているんだ。目的は何だ」


「「君は僕の代わりに生贄に選ばれた。申し訳ないことをしたね。だけど仕方がなかったのさ。僕たちには大きな使命があるんだから。この国が隠し続けてきたこと……それは許されることじゃない。僕らは戦わなければいけないんだ。命を犠牲にして輝く太陽に照らされたこの国を、僕ら選ばれた人間たちのもとに取り戻すんだ」」


「選ばれた人間たち……?」


「「スイミング・ピープル……崇高なる意思の集合体さ。身体を持たない完全な人間。新たな人類だ。ああ、楽しみだなあ、僕もあと少しでこの身体から抜け出せるんだ。この牢獄からね。身体があるから僕らは他者と隔絶されているんだ。孤独と拒絶の恐怖の間で苦しむんだよ。身体っていうのはまさに牢獄さ。生まれた時から僕らは閉じ込められているんだ……」


電線から流れる異音は大きくなっていく。頭痛がする。眩暈がする。マイはいつの間にか後ろでしゃがみこんでしまっていた。Fはまだ僕らに背中を見せたままだ。揺れる長髪から見える、首に刻まれたF-O82が何かの呪いのように感じられる。スイミング・ピープル。新たな人類?Fが何を言おうとしているのか掴めない。その存在がFの脱走を可能にしたのだろうが、正体は不明である。


少女の声。僕は振り返る。「私、聞いたことがある。サキが言ってた……スイミング・ピープルって。形のない人たちだって。あの子はそれに興味を持ってた」と、マイはかすれた声で呟いた。


「「その通りさ。彼女も僕らに仲間入りする、はずだった」」

「……どういうこと?」

「「その前に彼女は太陽の生贄に選ばれてしまった。資源として消費されてしまったんだよ。僕らは彼女の存在に気付くのが少し遅かった。関係者だった隣の君はわかると思うけど、もう死んでしまったんだ。お気の毒だけど。この国が犯した非人道的開発の犠牲になったんだよ。政府が殺人を犯したんだ」」


やはり、マイの友人はすでに―。彼女は言う。「死んだ?もう、二度と会えないってこと?ねえ、全然意味わかんないよ。どうして。何も死ななきゃいけない理由なんてないじゃない」

「「生きてるだけで死ぬ理由になってしまった。この国は平然とそういうことをやるんだ。君だっていつか、犠牲者に選ばれるかもしれない。隣の彼は、現に今そうなろうとしているのだし」」


電線から発せられたすべての音が止んだ。また、沈黙が佇んでいた。「「そろそろだ。ちょうどよく時間切れ。この身体はもうほとんど人形みたいなものでね。僕の意識の残りくずが残ってるだけなんだ。彼らとの融合が完了すれば、この身体はただのモノ。死体とおんなじ。僕もスイミング・ピープルになるのさ」」


Fはケタケタと笑い出した。電線は音もなく踊るようにうねっている。暴れる蛇のように。僕らはその様子に口をふさがれていた。


突如。


閃光が視界を覆った。バチバチと音を立て、Fの上半身が右に九十度折れ曲がった。そして発火した。全身を炎が包み込む。真っ赤な光はあっという間に彼を飲み込んで、そして消えた。黒く焦げた服が空気中を舞い、枯葉のように落ちる。僕の体は錨のように硬直し、何が起きたのか理解するのに時間を要した。


Fは手品のように消え去ってしまった。僕は彼を連れ戻すことができなかった。

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