捜索

僕は陽が沈みかけの薄暗い路地を縫っていた。目に映る光景には一ミリも思考を割かず、自動運転の車のように孤独に進む。巨大スクリーンに光るカウントダウンが頭のなかで喚き続けている。僕が死ぬか、この国が死ぬか。不条理とはいつだって背後からやってくる。叫ぼうが拳銃を発砲しようが、彼の前ではされるがまま。道を二つ用意され、どちらか選べと耳元で言うのだ。ナイフを首に突き立てながら。僕はまだ、そこから動くことができない。


「僕には関係のないことです」

僕は立ち上がり、杉田を見下ろす。「もう機関の人間じゃない。それに、見ず知らずの人間を救う義理もない」と、僕は彼の存在から目をそらした。声を荒らげた様子を、向こうの長袖の女子大生が怪訝そうに見ている。杉田は落ち着いた声で言う。「太陽が消えれば、天地がひっくり返るような事態が起きる。想像の追いつかない犠牲が生まれるだろう」

「僕に守りたいものはありません。どうなってもいい」

「妻と娘。私には家族がいる。……そして、君にも」と語りかける杉田に、僕は言葉を詰まらせる。いいや、すべて捨てたはずだろう。しかし脳裏には、小さな女の子の影が水面に浮かぶように揺れていた。遠く、声が聞こえてくるような気がした。


「二日後。それがタイムリミットだ。また迎えに来る」杉田は言い、最後に「すまない」と頭を下げた。彼は長いことそのままの姿勢だった。


夕闇に影のように佇む路地。僕は久しぶりにそこに足を踏み入れた。通りを外れ、もぬけの殻の雑居ビルの地下へ誘う階段を降りると、一転、賑わうライブバーが姿を現す。ステージでは小規模な演奏が行われ、客が合わせて体を揺らしている。彼らは皆、ホームレスだ。この一帯は彼らの小さな町で、僕が命を救われた場所でもある。僕はカウンターの男に礼をし、辺りを見回す。


「よお、久しぶりじゃねえか。まだ生きてやがったのか」


僕に投げられた濁った声。その音のほうに顔を向ける。髭の大男は口元を左右に引き裂かんばかりに広げ、こちらへ向かってきた。「死にはしませんよ。ここも数年ぶりですね」と僕も微笑みで返す。僕らはそのままカウンター席に腰かけた。「最近は町がきれいになっちまって敵わねえ。金になるもんがまったくだ。そのせいで、ここを出ていくやつらも多くてよ」

「そうですか。どおりであなたも、腹が少し引っ込んだんじゃないですか?」と僕が言うと、やたらと大きな声で痛快に笑った。


ここは、昔僕の命を救った髭の男が治めるホームレス街の集会所のような場所だ。ホームレスたちはここに集まり、拾い集めた情報を提供しあっている。「んで、今回は何の用だ」と、男のたるんだ顔が瞬時に引き締まる。僕はそのアンバランスさに、気が少し楽になる。「人を探してるんです」

「探し物は人間か。お前がそんなもの探してるなんてな……昔の女を思い出したのか?」

「そんなくすぐったいもんじゃありませんよ。見つけたいのは男です」

「場合によっちゃあ、それはそれで面白いが……」


僕は失踪したFを探すことにしたのである。杉田によるとそれはまだ見つかっていない。僕は彼から聞いたFの特徴を髭の男に話してやる。しかし、正直なところこの捜索は、自分の生死の決断を少しでも引き延ばしたいという逃避の欲求に他ならなかった。僕は頭のなかから、その使命を排除したかったのだ。たとえ一時期的だったとしても。Fの脱走と予備たちの不可解な死。そんなことを可能とする「何者か」が、そう簡単にFを連れ戻すことを許すはずがない。一縷もない望みを持って、僕はここにやって来たのだ。


死ぬのは別にかまわない。だが、僕になぜ他人を救う義務がある?異常事態になった途端、「私たち人間」なんてハリボテの仲間意識が頭を出す。誰が死のうが、僕に責任はない。他者のために何かを成し遂げる必要なんてない。


日雇いバイト、どこそこでボヤ騒ぎ、あそこの家の長男が死んだ、酔っ払いが警官に殴りかかった。魑魅魍魎の情報が飛び交うこのホームレスの集会所でも、Fに関する手掛かりは得られなかった。やはり予想通りだった。「首にアルファベットのFと数字のタトゥー……いくつか情報が入っててもいいもんだがな。しかしお前、そんな得体の知れねえヤツを探す目的は何なんだ?首を突っ込む気はねえが、私怨なんてもんだったら、キレイに捨てちまった方がいいぜ。あとクスリもな」と髭の男は言う。「古い知り合いでね。少し用があっただけなんです。ありがとうございます。では、これで」


「ねえ。それ見たよ」


尖った声。席を立とうとした僕は音がした方を向く。そこには二十歳にも満たないほどの小柄な少女が立っていた。「首にタトゥーのある男」


「私もそいつに用があるの。案内してあげる」と、少女は僕を手招きした。

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