太陽の生贄

平日のコーヒーショップの二階は閑散としていた。うつろな顔をしたサラリーマンたちも、多くが働くべき場所へとたどり着いた時間。今視界に映るのは文庫本を読んでいる老人と、八月なのに長袖厚着の大学生らしい女性だけ。そこにスーツとみすぼらしい格好の二人。この空間では僕らが一番怪しい人間に違いない。


「それで、太陽はいつ消えてしまうんです」僕は、いつのまにか蚊に食われた左の人差し指をいじりながら聞く。「陽が昇ってこないのは三日後。つまり明後日の日没が終わりの合図。夜は一生明けない」

「ふうん、それは大変なことで」と、他人事のように処理する。窓から見えた、電線にとまるカラスたち。太陽が消え去っても、彼らは気楽に鳴き続けるのだろう。人間を嘲笑うような声で。


僕は杉田に向き直る。「原因は?」

「Fの脱走。まだ居場所は判明していない」

「抜け出したとは……珍しいですね。機関がそんなヘマをするなんて」と言う僕に、杉田はうつむいた。「想定外の攻撃を受けた。何者かがFの脱走を手助けしたとの報告がある」

「政府の隠蔽、つまり偽の太陽に気付いた人間の仕業?」

「それはわからない」


Fとは人工太陽の餌となる人間のことだ。人工太陽管理機関の業務として、そのFの管理がある。僕が所属していたころは、少なくともそのような脱走事故はなかった。Fの供給が一度でも滞れば、国家の崩壊は免れないだろう。この国にいる人間は、朝が一生やってこないことを知らずに眠る日が来る。そして明けない夜を目の当たりにし……その混乱は想像もできない。


「しかし、脱走したのは一人だけなんでしょう。予備として何人かのFがいるはずです」と言う僕。不測の事態に備え、Fは複数用意しているはずなのだ。しかし杉田はしばらく口を閉ざしていた。そして呟く。「全員……死亡した」

「死んだ?」

「ああ……突然、精神錯乱状態。悲鳴だ。そのまま舌を噛み切って死んだ。全員だ。しかも同時刻に……」


アイスコーヒーの氷がカランと音を立て、その瞬間空気が冷たくなったのを感じた。予備の生贄がすべて?グラスの中の液体が血のように見えた。僕はこみ上げる嘔吐の気配をこらえていた。杉田は肺を押しつぶすように、長い溜息をつく。僕はふと、彼がずいぶんと歳を取っていたことに気付いた。あの頃はほとんどなかった白髪が、今や大半を占領している。ナイフで刻んだようなしわがあちこちにある。そこに隠れていたのは、苦悩の塊だった。


吐き気は気化し、嫌な予感となって頭のなかを占領し始めた。「他にFとして使える人間は?」

「用意する時間がない」と杉田は吐き捨てる。重要なのは、「死んでも誰にも気づかれないような人間」である。政府による拉致・殺人は公にされてはならない。だからFは、気が重くなるような身辺調査や上層部の承認を経て、基本的に身寄りのない重罪人やホームレスが選ばれることが多い。


―ホームレス。


「杉田さん。あなたがここに来た理由、わかりましたよ」元人工太陽管理機関の人間で事情をよく知っている。そして失踪。僕はもう十年以上社会の人間と会っていない。つまり、法律的には「死亡」している人間だ。この緊急事態で、これ以上ないくらいの適任者ではないか。


杉田は頷いた。


「君がFとして選ばれた。この国の命運は、君にかかっている」

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