後書きのような人生

僕は仕事も、名前も、守るべき家庭も捨て、失踪した。十二年も前。あの頃の僕は壊れてしまっていた、と思う。自分の正常を保つことができなくなっていた。知らぬうちに、僕はすり減って形をなくしていた。上司の杉田はそんな僕の様子に気付き、手を尽くしてくれた。しかし僕は決定的な事故に遭遇した。そうして僕を現実につなぎとめていた糸は、虚しく切れてしまった。


ホームレスになった後のことは、特に考えていなかった。そのまま野垂れ死んでもかまわなかったからだ。失うものは何もないし、かえって前より気が軽かった。僕は缶や雑誌などを拾って小銭を稼いだ。コンビニなどの廃棄が基本で、運よく金があれば店で腹を満たした。寝る場所は路上、公園、空き家、ネットカフェ。寝られればどこでもだ。もちろん生活は格段に苦しくなった。だが現状に不満はなかった。


いくつかの町を一時的な根城としながら、ホームレスの生活に慣れていった。その日生きることだけを考える暮らしが、心地よく思えてきた。うまくいかなかったら、それでおしまい。シンプルだ。一年、二年と時は過ぎ、僕は壊れた自分を修復していった。それ以前のことを、少しずつ忘れていった。


四年目だったと思う。僕は死にかけたことがあった。不運が重なり、数日間食にありつけなかったのだ。八月の蒸し焼きの熱帯夜。僕は路上でミミズのように干からびていた。旋回する蠅の音を聞きながら、もがくこともなく、死が訪れるのを待っていた。どこまでが死にかけで、どの瞬間から死なのか、なんてことをのんきに考えていた。廃墟が連なる死んだ町の一角。誰にも見られることなく、ひっそりとこの世から退出する。そこには、走馬灯すら流れなかった。


だが、死骸になりかけた僕を誰かが拾い上げたのである。僕は僕の体が引きずられていく様子を、三人称視点で眺めていた。そんな記憶が残っている。声を上げようとしても、真空に閉じ込められているように何も響かない。髭を豊富に蓄えた小汚い男に引きずられた体と、その体に引っ張られる僕。男が何かを叫ぶと、視界は急に暗くなる。視界に映る僕の体に落ちていくような感覚とともに、僕は気を失った。


結果的に、僕は助けられたのである。その男もホームレスだった。彼は僕を自分の住処へ連れていき、なけなしの食料を与えた。そこには女性や子どももいて、皆、ホームレスだった。僕はそうして、再び目を開くこととなる。彼らは生き返った僕を見て、手をたたいて喜んだ。僕は別に死んでもよかった。だが、口からは自然と感謝の言葉が漏れた。この生活を始めてから、初めて芽生えた感情があった。


ホームレスにも家族のような共同体がある。彼らは情報を出し合い、手助けしながらその日を生きる。そこには「生」を熱望する者たちの、純粋なつながりがあると髭の男は言っていた。「生」だけが目的の、洗練されたコミュニティ。僕が迷い込んだ死んだ市街地には、彼らの社会が構築されていた。そのようなホームレスたちの「町」は大小、各地に存在しているらしい。「お前もここに住めばいい」と髭の男は勧めた。僕はそれを断ったのだが、その後も彼との付き合いは何度かあった。


「彼らのほうがよっぽど人間的です。働いていたあの頃の生活に戻れるとしても、僕は絶対に喜ばないでしょう」と杉田に言う。彼は冷えたコーヒーを口元に持っていきながら、得意の鼻で笑う仕草をした。「社会に縛られた人生に生きる私たちと、社会から抜け落ちた人生に生きる君たち。どっちがまともだろうかね」そう言って、杉田は初めて表情を崩す。そこに浮かんだのは自虐的な笑みだった。

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