第13話 あこがれと不安

 念願の船旅にレイチェルは感動ひとしおだった。


 レイチェルは山に囲まれた街で育ったせいか、学園時代に初めてロイと港で船を見てから海を走る船に強い憧れを抱いていた。


(たまに見る地下牢の悪夢のせいかもな…地下の反対の自由の象徴が私にとっての海なのだろう)


 ふと見ると、いつの間にかロイが隣にいる。いつも猫の様にひっそり側にいるのにも慣れてきた。


「かなり船が揺れるから心配したけどレイは全然平気そうだ…やっぱり強いな。見た目はこんなに…」


 綺麗なのに、と言いたかったのだが、ロイの口からはどれだけ頑張っても出てこなかった。


「野生児なんでね」とレイチェルはニヤリとして言った。


「ふーん」


(ロイはきっとフォンテンブロー侯爵家の一人娘なのに野生児なんておかしいってわかってるんだろうな。父もたまに王都に来ているようだが、寄宿舎にも今の家にも顔を出したことがないのも気が付いているはずだ。いや、まずは父娘でもお互い顔がわからないか…はっ、笑っちゃうよ)


 レイチェルが威張っているような寂しいような微妙な顔をしていると、ロイが突然言った。


「俺はレイのそういうとこ好きだ」

「…」


(強いのが好きなんだ、変なやつ。でも珍しく気を使ってるのか…そういえば…)


「無理して乗船してくれたのってもしや誕生日プレゼントなの?ロイが一緒なのはとても嬉しいし、仲直りしてくれて嬉しい。私もロイのそういうとこ、好きだよ」

「いや…そういうわけでは…ただ…」

「ただ?」

「…」


 ただレイチェルを好きだから死ぬほど船旅が心配で同乗した、とは口が裂けても言えないロイは、黙って持っていた地図を開けた。そして、コンパスで方角を確認しながら遠くに見える島影をルテティア王国のどの部分か二人で検証し始めた。


 レイチェルの家でロイがおでこにキスをしたにも関わらず、半年以上たっても二人の仲は全く恋人に進展していない。仲の良い学友止まりだ。それはひとえにロイの高いプライドとレイチェルの恋への関心の薄さのせいだ。彼女はおでこにキスされた時はドキドキしたが、それは学友への親愛の現れだと信じて疑っていない。

 レイチェルは、ロイが他の人とは違うな存在だと深く認識していた。彼女が感情をぶつけられるのは彼以外いなかった。だから今回船旅を阻止されたことでケンカをして強がっていたが本当は参っていたところに、彼の方から仲直りを持ちかけてくれたことに深く感謝していた。いつもそばにいたロイがいなかった期間は底知れぬ深い寂しさを感じていたのだ。

 そんな甲板の二人を見て、ポールが面白がって邪魔をしようとするのをユリアヌスは止めているのだった。


 二人は全く甘い雰囲気にもならずに最新の彩色地図を見て盛り上がっていたが、ふとレイチェルが大陸の東端の丸っこい島を指さした。


「ねえ、この『ワクワク』って国、講義で聞いたことある。きんがどこでも採れる幸せの国なんだって。伝説では不老不死の薬もあるらしい…」

「ああ、『ティン』の属国の『シーラ』の沖にあるっていう人喰い人の島だろ?大陸の東の端の端だな。遠すぎて行ったらもう帰れないかもよ」

「行きたくない?」

「…レイが一緒なら…」

「なら?」

「行ってみたい…な」

「いいね、いつか目指そう。約束」

「…わかった、約束だ」


 二人は小指を絡めて約束をした。そこに地図の話に加わりたくて我慢できなくなったポールとユリアヌスが合流した。どの目も子供のようにキラキラと輝いている。


 ルテティア王国の宗教の影響で地理学では地面は真っ平であり、ある地点まで行きつくと天に落下すると考えられている。その考えは信心深いルテティア人の海洋航路の拡大を妨げていた。

 しかしポールは旅の経験から自らが立つ大地や海が球形であると確信を持っていた。彼は、机の上のたらいの水は循環しないのに海水が常に循環していることから地面が完全に平衡したものではなく、それならば球形以外にないと考えていた。それをなんとか証明したい為に天文学・数学までも大学で学んでいるのだ。

 その話になるとレイチェルもロイも真剣になり、ユリアヌスも加わってどのように証明をするのかの議論になるのだった。



「では、俺たちの航海の安全に乾杯!」


 ポールの合図でレイチェルとロイ、ユリアヌスはお酒の入ったグラスを持ち上げた。

 テーブルが3つしかない狭い食堂では裕福そうな商人たちが船酔いか酒酔いかわからないくらい酔っていた。やたらご機嫌に盛り上がっている。

 ちなみに船の客室は6つで、2つはレイチェルとロイが個室で使用し、残りの4部屋に2人ずつ乗り込んでいる。全ての部屋が普通の船の部屋の2倍の広さがあるが、それでも狭いものではあった。


「かんぱーい」「…乾杯」「乾杯!」


 レイチェルがワインを一気に飲むと、ロイが慌てた。


「おいおい、おまえ飲めるのかよ?」

「へっへへ、だまされた?これ違うよ、ジュースだから大丈夫。ロイってば、キキみたいにうるさいな」


「へー、そうなの?」とポールが興味深そうに聞いた。彼もキキの料理を食べたいのもあって何度かレイチェルの家を訪れているので彼女を知っていた。その知的で礼儀を重んじるキキが口やかましいなどとは意外だった。

 レイチェルの家の常連のユリアヌスはニヤニヤしている。一人暮らしの彼の身体をキキが心配していつも食事に呼ぶので、キキとレイチェルのざっくばらんなやりとりはお馴染みだったのだ。


「うん、海を見てるだけなのに『危ない』とか『部屋に戻れ』とかうるさくって…」

「こら、いらねーこと言うな。俺はキキ殿とアランにくれぐれもって頼まれてるから…」


 眉をひそめて抗議するロイと、口を尖らせて文句を言うけど少し嬉しそうなレイチェルが言い合いしていると、


「でもさ、ロイってちゃんとここに来るって王宮に言ってないんだろ?」とユリアヌスがポールとロイに向かって質問したので二人の顔が引きつった。


「う…なんでわかった?」とロイが白状したので、ユリアヌスとレイチェルはため息をついた。


(ロイってば…やっぱり内緒で来たんだ!ったく、これだからお坊ちゃんは…家族くらいちゃんと説得せーよ)


 レイチェルは自分だけではキキを説得できなかったのを棚に上げた。実際彼女もロイと同じく内緒で船に乗るつもりだったのだ。


「そんなのわかるよ。許可がもらえたなら警護が付くはずだしさ。もらえないから内緒で来たんだろ?いいの?」


 ユリアヌスが心配そうに灰色の瞳を曇らせた。


「いいんだよ、父が死んだらこれまでみたいに自由にできなくなるしな…」とロイが視線を机に落としながら珍しく家族のことを話した。レイチェルはロイの家族のことは何も教えられてないので、少し驚いた。


「…そっか。ロイも大変だな」とユリアヌスがしみじみ言うとポールがしんみりと頷いた。でもレイチェルは、


「えー、ロイってばさっきワクワクに一緒に行くって約束したくせに!この嘘つきっ!」と叫んで隣に座るロイの肩を熱い手で掴んで揺らした。いつの間にか顔が真っ赤だ。


「おいおい、おまえ…」


 ロイは彼女がさっきまで飲んでいたグラスに口を付けた。


「これ酒じゃねーか!この嘘つき女!!」

「えー、だって飲んでみたかったんだも…ん」


 レイチェルは、「ふに…」という言葉とも吐息ともつかぬものと共に、そのままロイの胸に倒れこんで寝てしまった。




「ちょっと服緩めるから触るぞ」


 ロイはレイチェルをおんぶして部屋に運び、ベッドに寝かせた。しかし胸をきつく圧迫しているベストが苦しいのかレイチェルはうなされている。一応警告をしてから着古したベストのボタンを上から順に外した。ボタンは内側からの圧力で斜めになっていて外し辛い。

 

「おいおい、結構きついの着てるんだな、苦しいのを我慢してんのかよ。ブルクに戻ったら大学用の服を仕立ててプレゼントしてやるか…丁度誕生日だしな」


 ロイは男装のなかにますます女性らしくなってきた身体を押し込めて大学に通う彼女に同情した。しかし彼女が今流行りのふわふわのドレスにごてごてした髪形で歩いているのも変な感じだ。ぼんやりと想像していたら、夏の薄いシャツから下着と形のいい胸が透けて見えてドキッとした。


「だめだ、これ以上ここにいたら俺は間違いなくヤバい…おい、もういくぞ。レイチェル、お休み…」


 ロイは部屋に誰もいないか何度も不審者のようにキョロキョロ確認してから、かがんで柔らかい頬にキスしようとした。しかし、ベストの苦しさから解放されたのに、彼女はまた眉間に皺をぎゅっと寄せてシーツを握りこみ小さく叫んだ。


「ん…ここは嫌だ…怖いよっ…出して、ここから出してっ。お父様っ」

「な…?レイ、大丈夫だ、ここは船だ。俺もいるから…」


 ロイがうなされるレイチェルを思わずぎゅっと抱きしめると、ふわふわの柔らかい身体がロイに密着した。ロイは彼女の身体を甘やかな気持ちで感じながらも、そんな彼女を見るのは初めてで心配で仕方なかった。

 いつも冷静で明るく、たまに鋭い皮肉を言うレイチェルしか彼は知らない。父親からの縁組の手紙で酷く動揺していたあの時を除いてだが。


 彼女が落ち着いて寝るのを待って、彼はレイチェルをゆっくりベッドに横たえた。乱れた彼女の髪を撫でつけながら、ロイはレイチェルの不安の源を思った。彼女の怯える様子は、結婚の話が出る時にも同様に見られる。


「おまえは何を怖がっているんだ…?教えて欲しいんだ…おまえのことを」


 しばらくして部屋から出ようとしたが、鍵が内側からしかかけられないことに気が付いた。彼はこの状態の彼女を放ってはおけずに、仕方なく部屋の小さなソファーに身を投げて彼女の気配を感じながら目を閉じた。

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