第44話 名前
「絶対に行く!すぐ近くだよ?!」
朝からそう言い張ってロイを困らせているのは少しお腹が膨らんだレイチェルだった。よく見ると全体にふっくらしてきている。ロイとキキがやたらと食べさせるせいだ。
「ダメだ。何かあったらどうすんだよ…」
ほとほと困った様子で栗色の髪を左手でくちゃくちゃにしているのはロイだ。
しかしずっと不安定な時期だと周りに言われ続けて2か月、王宮の離れでじっとしていたレイチェルにも我慢の限界が来ていた。つわりもなく少し身体がぽかぽかするだけで健康体なのだ。
「あるわけないじゃん!アランがいるんだし」
「…お前が心配なんだ。俺の為にもう少しだけ我慢してくれないか?」
そう言いながら、レイチェルを優しく抱き寄せて肩甲骨の少し下まで伸びた金髪を優しく撫でた。一般の女性よりは短めだが、もう
「もうその手には乗らない!前もそう言って温泉に行かせてくれなかったじゃない…」
先週フェリシアとラウラが王都から3日で着く人気の保養地で温泉に入ってきたのを今でも羨んでいる。秋の気配がしてきた今は皆がいそいそと旅行に出かける季節だ。
レイチェルが彼の身体を押しのけようともがき、泣きそうな顔をして可愛い上目使いでロイの顔を見て言ったので、彼はとうとう折れた。
「…わかった。あまり長居してくるんじゃねーぞ、調子が悪くなったらすぐに帰ってくるようにな」
それを聞いてレイチェルはロイに飛びついた。
「こらこら、そんな暴れるな…危な…」
「ありがと、ロイ!もう死にそうなくらい退屈だったんだ…」
王宮にある本もあらかた読みつくしたレイチェルは、用事のついでに大学に寄って本を借りてこようとこっそり考えていた。
(だってまた当分出られないかもしれないものね…)
王宮の北に1マイルにある王室用農園の空き地に建設していた孤児院と学校がとうとう完成した。
お披露目の日に発案者で名誉理事でもある彼女がいない道理はない。
両施設の統括的責任者のユリアヌスと、学長を引き受けてくれた王立学園の元学長も同意見で、身体に差しさわりがなかったら出席した方がその後の運営がしやすくなるとロイに提言したのも大きかった。
王立学園の元学長は随分前に先妻を病気で亡くしてから独り身だったのだが、1年前に長年身の回りの世話をしていた奴隷の女性と結婚していた。それもあって学校の責任者になって欲しいというレイチェルの願いを聞き入れてくれた。
「ありがと、ユリアン。やっと王宮から出られたよ…ロイはちょっと心配し過ぎで困るんだ。今日は天気がいいけど、もし雨なら絶対に出してくれなかったって!」
いつも以上にのんびり進む馬車の中、レイチェルはうきうきを隠さない様子で窓から外を見ながらユリアヌスに愚痴った。空気が違う。レイチェルが王宮に
それを聞いてアランが眉を少ししかめている。ロイとキキから絶対に無茶をさせないよう言い遣っているが、両方の気持ちがわかるのでアランは辛い立場なのだ。
「良かったですね。つわりもないし順調だってお医者様もおっしゃっていましたので、大丈夫でしょう。でも何かありましたらすぐに帰りましょう、ちゃんと僕かアランに言うんですよ」とユリアヌスは優しく釘を刺した。
こういうところがユリアヌスはすごいよな、とレイチェルは感心した。彼は相手が怒りそうで言いにくいこともさらりと上手く言えるのだ。
「はーい。ねえ、ユリアンから様子しか聞いてないけど施設はどんなになったのかな?楽園みたいにして、って私の意見は通ってるのかしら?」
「ふふふ、もちろんですよ。レイの気に入る事間違いないです」
ユリアヌスは夢見るような灰色の瞳を優しく揺らせた。
「わー、なにこれ!見たことない植物ばかり…建物は円形なの?すごい…」
王室用の野菜を育てている農園入口のがっちりした門から、道を3分程馬車で進むと、その丸いバームクーヘンのような建物が目に入った。奥には四角のシフォンケーキのような建物が見える。そちらが孤児院だろう。
入口の石畳の車寄せにはたくさんの関係者の馬車が並んでいる。この事業に寄与した貴族や商人たちだろう。少しでも王室の覚えを良くしようとたくさんの貴族や商人から寄付がなされた。国民に人気があるレイチェルが王族を代表してひとりひとり挨拶することで、今後の継続的寄付も望める、というのが運営側の目論見だ。
学校は2階建てだが緑に囲まれており高圧的なところがなく、中にすいっと入りたくなるような建物だ。
3人は出来立ての学校施設の植物だらけのエントランスから中に入った。とは言ってもレイチェルとユリアヌスはわらわらと挨拶にくる関係者をさばきながらなのでなかなか前に進まないのだが。
すぐ目の前に明るい中庭が見える。天井がない吹き抜けだ。天気がいいのでそこでいろんな年齢層の子供たちが遊んでいる。よく見るとブルクの街に視察に行った際に見た顔もいてレイチェルはホッとする。
併設された学校の先生方もいるのだろう、子供たちと賑やかに飲食を楽しんでいる。
「美しいわ…ここはもしやユリアンが設計したの?」と聞くと、彼は嬉しそうに頷いた。
このいかにも居心地のいい建物はユリアヌス自身そのものだった。道理で彼がここに来て欲しいと言ったはずで、彼女に見せて驚き喜ぶ顔を見たかったのだ。
「ふふふ、わかりましたか?おおまかな図面を書いて、後は建築家と学長、ルキウス夫妻に相談しました。私が育った孤児院がそうだったのですが、子供たちがここを牢獄みたいに感じることがないようにしたいなって」
「牢獄…」
レイチェルはユリアヌスの想いを受け止めると共に、久しぶりに自分のよく見ていた夢を思い出した。
(そういえば結婚してからあの夢を見ていない。父が言っていた通り、私がルテティア王国を繁栄に導くことが出来たらもう悪夢は実現しないのだろう。反対に、繁栄への道筋を作れない場合は牢獄なのかもしれない。ならば、やってやろうじゃないか!)
そう思うとレイチェルは
「どうしました?…疲れましたか?」と赤毛を揺らしてアランが気遣った。
「違うの、すごく素敵な環境なのに、私何も出来なかったからちょっと悔しかっただけ。もちろんすごく嬉しいよ、思った以上に素敵だ!」
そうレイチェルが言うと、ユリアヌスは首を振って夢見るような瞳を少しだけ濡らした。あまり感情的にならない彼にしては珍しい事だ。
「貴女が声を上げなければ奴隷は奴隷のまま、赤子は遺棄されて死に、子供はゴミをあさりながら道端で短い一生を終えるしかありませんでした。彼らはこの国にいる限り希望も未来もなく、知恵を得る機会もない。野垂れ死ぬのを待つか、もしくは死ぬまで安価な労働の道具になるかです。私は貴女を尊敬しますよ、レイ。人がしていないことを最初にするのは勇気がいる事です」
「…もう。ユリアンにそんな風に褒められるとなんだか…照れるからやめてよ。これからも宜しくね、あなたなら私やロイが間違ってたらちゃんと正してくれるでしょ?頼りにしてるんだ」
レイチェルが困ったように言うとユリアヌスはいつものように、
「もちろんです、レイとロイが望む限りはね」と優しく答えた。二人が話していると、
「おう!王宮から出してもらえたのか?」と大声で言ったポールがレイチェルの肩をポンといつもより優しく叩いた。
「ポール!どうしてここに?帰ってたの?」という彼女の問いに、ポールはふっくらしてより美しさを増したレイチェルに見とれて答えないので、仕方なくユリアヌスが答えた。
「ここの植物は、ポールに南の異国の地から船で運んでもらったんだ。僕がこんな感じの、って辞典にあるものを指定してね。最初のここへの通路沿いに植わっているのはバナナの木、といって、育ってくると栄養豊富な実が食べられるんです」
「えーーーっ、いいな!ねえ、ポールはどこまで探しに行ったの?」
レイチェルが目を輝かせて聞くので男どもは思わず笑ってしまった。
「ああ、事務室に地図があるから後で説明してあげる。でもレイ、元気に見えるけど、本当に大丈夫か?無理するなよ」とポールが少し心配そうに聞いた。
ルテティア王国では子供が3歳まで生きることがまずは難しく、20歳で結婚出来れば人生の勝者、というくらい大人になるまでに死んでしまう。ロイの心配もあながち間違ってはいないのだ。
その気持ちはわかるので、レイチェルはすまなさそうに、
「うん、王宮にずっといると反対に病気になるって言ってユリアンに連れて来てもらった」と答えた。
「なるほど…ロイも可哀そうに…」といかにも気の毒、といった顔でポールが言った。
「なんで?」
「きっと今頃死ぬほど心配してる。あいつ見栄っ張りだから正直にレイに言えないんだろ?」
「そんなことないよ?心配だから行かないで欲しいって言ってたけど、今日は押し切ったの」
それを聞いてポールは目を丸くした。
(心配だから行くな行くなってうるさかったし。しかしポールのなかのロイ像ってどんだけ狭量で意地っ張りなんだろう。どこまでも弟みたいなもんだものね…ふふふ)
「マジか…ロイも成長してんだな、安心した。当分はこっちにいるから困ったことがあったら聞くよ」
「うん、ありがと。じゃあさ、目新しい本を差し入れしてくんない?」
「ぷっ、相変わらずだな。わかったよ、今度離れにどんと持ってくから」
「ありがと、ポール!もう王宮は退屈で死にそうなの…」
ポールがレイチェルのふっくらした身体と生き生きつやつやした顔を見て「どう見ても死にそうにないな」とつぶやいたので、そばにいたアランまでが噴き出した。
「さ、こちらです」とユリアヌスは3人を会場に案内した。
陽光がさんさんと降りそそぐ中庭は、実がなる樹木や下草がいい具合に植わっていてまさに楽園だった。真ん中に小さな水槽があり、水面がキラキラしている。
子供たちに囲まれていたルキウス夫妻は、レイチェルを見つけてすぐに走り寄ってきた。
「レイチェル様、身重の大変なときに子供たちの為に来ていただきありがとうございます!」と相変わらず操り人形のように丸々とした身体で顔を真っ赤にしてルキウスが言ったので、レイチェルは笑うのを我慢するのに苦労した。なぜだろう、彼はレイチェルのツボだった。
「いえ、頼みっぱなしで申し訳なかったです。子供たちに慕われている様子をみてお二人に孤児院の運営を任せて良かったと思っています。困ったことがあればユリアヌスを頼って下さい、有能な彼なら大概なんとかしてくれますので。スタッフも教師も将来は孤児院の卒業生がなるのが私の理想です。皆がここに帰ってきたいと思えるような環境造りをくれぐれもお願いします」
レイチェルが頭を下げたので、ルキウス夫妻が驚いてただちに頭を下げると、子供たちも真似して頭を下げた。その中から、一人ひょろひょろでやせっぽちの金髪くせ毛の女の子が後ろから押し出されてレイチェルにぶつかった。
「あらあら、大丈夫?」とレイチェルが抱き留めるとあまりに軽く、皮膚のすぐ下に骨があるのがわかる程痩せていたのでドキッとした。
「も、申し訳ございませんっ…これ、この方にはお腹に大事な赤ちゃんがおられるのです」とルキウス妻が女児を優しく抱っこしようとした。
「いいの。私こんな小さな子を抱っこしたことがなくて。お嬢さん、お名前は?何歳かしら?」
「…」
小さな彼女は困ったように青い瞳を揺らしてぎゅっと唇を結び黙り込んだ。
「ごめんね、知らない人だものね…怖がらせてごめんなさい」
「…」
レイチェルが無言の彼女の青白い頬に触れると、びくっと震えた。他人に触られるのに慣れていないようだ。
「すいません、その子たちのほとんどは自分の名前も年齢もわからないので答えられないのです。ユリアヌス様と名前を決めないと、って先日話していたところなんです」
「そうなの…6歳…くらいかしらね、アラン?」
「そうですね…」
二人は明らかにお互いの6歳の頃を思い出していた。
「お嬢さん、お名前はラケルってどうかしら?私の名前はレイチェルというのですが、起源は神話にも登場するラケルからきているの」
「らける…?」
彼女は驚きで見開いた目にじんわり涙を浮かべててレイチェルを見た。レイチェルは焦って、
「い、嫌だったかな?ほかにいい名前…えーっと…」と考えていると、
「わたし『ラケル』がいい」と小さいけどはっきり彼女が答えた。
そのガリガリの少女は生まれて初めてプレゼントをもらったように喜び、目を輝かせている。レイチェルは涙が出そうでぐっと我慢した。
(きっと私の両親も顔を見ながら考えて悩んで名前を与えてくれたんだ。それだけで嬉しいことなのに、私ったら…全然ダメな娘だった。ごめんなさい、お父様、お母様)
「良かった…気に入ってくれたら嬉しいわ」
アランがハンカチを渡してくれたので、すでに我慢しきれずこぼれた涙を拭いた。ユリアヌスとポールもラケルとレイチェルの様子を見て嬉しそうにしている。すると
「僕もつけて?」「私も!」とせがむたくさんの名前のない子供に囲まれ、レイチェル達の長い名づけタイムが始まった。
男子はポールやユリアヌスに手伝ってもらい、子供たちの雰囲気を見たり、本人に聞きながらじっくり決めた。名前とはとても大事なものなのだ。
ユリアヌスはノートにさっそく名前と大体の年齢を記録していった。ルキウス夫妻は一生懸命彼らの新しい名前を覚えようと、何度も彼らの名を呼んでいた。
遅れてきた学長は中庭で子供に囲まれたレイチェルを見て、自分が作った学園の卒業生である彼女の成長を強く感じるとともに誇りに思い、目を細めた。
思わず目に涙が浮かぶ。
学園に入ってすぐに周りから一目置かれて裏のリーダーとなり、飛び級で卒業した彼女を思い出していた。彼女がいた間は大きな問題がなく、学園創立以来の平和な期間だった。長年多くの生徒を育てていたので、彼はレイチェルが大猫を被っていたのはお見通しだ。
「猫かぶりは卒業して守るものが増えたのですね…なんと頼もしい。貴女様ならば王国も難なく守ることが出来るでしょう。レイチェル様が守り育てるルテティア王国のこれからに協力出来るなんて誠に光栄です、老骨ながら協力は惜しみませんぞ」とぼそりとつぶやき、いつもの狸おやじに戻ってから彼らの輪に入っていった。
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