第3話「つたかずら(蔦蔓)」その③
副島は大阪支社に出社したその日に係長の辞令を貰った。新任の挨拶回りも終り少し落ち着いた頃、新入社員が配属されてきた。男性二人、女性一人であった。男性二人は課長が面倒をみることになり、女性は総合職で入社していて営業をやりたいというので副島が面倒をみることになったのである。一ヵ月の同行営業である。すらりと背が高く細面で古風な顔立ちの美人であった。課の男性社員から副島は羨ましがられたが少しきつい感じがして副島のタイプではなかった。名前を山野皐月といった。
初めての同行の時、東京の話が出て、
「私、係長の住んでいた町に一度だけ行ったことがあるんです」と皐月は言った。
「そうなんだ。親戚でもいるのかい?」副島は訊いてみた。
「はい」とだけ短く答えた。話すと穏やかで副島は好感を持った。あっという間に楽しくも忙しい一ヵ月が過ぎていった。
副島の先輩に精神科の医者がいる。大学時代、軽音楽サークルで一緒だった。年は二つ上だが学年は一つ上だった。どうしてもその大学の医学部へいきたくて浪人して入った。私立の有名校で特に医学部は難関であった。名前を竹下といったが鹿児島県の出身で九州男児そのものといった豪快さがあった。その先輩が京都の総合病院に勤めていたので大阪に赴任してすぐ挨拶に行ったのである。
「先輩。精神科って今はどんな患者が多いんですか?」
副島は竹下と久しぶりに飲みに行くことにした。赤提灯の安い店で竹下の行きつけだった。
「そうだな。その前に心の病とは何であるかということが問題なんだよ」
「どういうことですか?」
「他人からみて挙動が変だとか奇声を発するとかいうのであれば分かるけれど、見た目は普通でも心が病んでいる人は一杯いるわけだし本人そのものがそれに気づいていないというのが普通なんだよ」
「そうですね。大体事件を起こす人って真面目な人と思われている場合が多いですものね」
「本人は誰にも迷惑をかけていないと思っているのだが、実はそれが一番迷惑だったりする」
竹下はくせのある芋焼酎が好きだった。副島は麦焼酎を注文した。
「私が今一番興味のあるのはDVいわゆる家庭内暴力のことなんだよ」
「最近、新聞やテレビでよく取り上げられますよね。夫婦間だったり、親が子供に暴力をふるう場合もあるしその反対だったり」
「そう。そういう環境で育った子供達が成人して子供を持つ世代になった時にどういうことが起きるのか今調査をしているところだ」
「難しいテーマですね」
「そうだな。確かに難しいな。でも精神科医としてはやりがいがあるよ」
副島はいつも真直ぐで正義感の強い竹下を尊敬していた。
副島は大阪に来る前に結婚式場と日取りを決めてきたが、細かい打ち合わせにゆりが遊びを兼ねて会いに来ることになった。土曜日のお昼頃、大阪駅の新幹線のホームまで迎えに行った。
社宅扱いのマンションは新築の三DKでいつでも一緒に暮らせるようになっている。
「広くていいわねえ。これなら子供が出来ても大丈夫だわ」
「そうだな。早く子供を作ろうよ」
副島はゆりを熱い目で見つめる。ゆりは副島の気持ちをはぐらかすように、
「どう少しは落ち着いたの?」と訊いた。
「まあな。やっぱり一人暮らしは何かと大変だよ。早く君と暮らしたいよ」
「なに、それ。私は家政婦じゃないわよ」
ゆりはわざと怒ったようにふてくされてみせる。
「君と一緒にいたいのさ。分かっているだろう」
副島はゆりの手には乗らない。ゆりはニコッと笑った。
「仕事はどうなの?」
「ああ、大阪は東京と違ってドライだから慣れるまで大変だよと皆に言われたけど本音で付き合えばどうってことないよ。係長になって部下も出来たし。頑張らないとね」
「なんだか東京にいる時より元気になったみたいね。ひょっとして素敵な女の人でもいるんじゃないの?」
ゆりは冗談のつもりで言ったのだが副島が、
「実はそうなんだ。新入社員の女の子が美人でね。一ヵ月同行して面倒をみたんだよ」
「それで元気なのね。離れているとやっぱり心配だわ」
ゆりは本当に心配になった。目に動揺の色が出ている。
「何を言っているんだい。僕には君しかいないよ」
副島はそう言うとゆりを優しく抱きしめた。
「そうやって誤魔化そうとして。そばにいないとやっぱりだめね」とゆりが言い終わるか終わらないうちに副島がゆりの口を塞いだ。二人は一ヵ月ぶりに熱い抱擁を交わしたのである。
ゆりと副島は三日とあけずに電話でやりとりをしていたが、ゆりは落ち着かなかった。離れているとどんなに信じていても不安になる。
一ヵ月が経った蒸し暑い日の夜のことである。ゆりは自宅のある駅の階段で転倒してしまった。腰の骨に罅が入るほどの重傷だった。ゆりが入院したという報せを受けた副島は大急ぎで駆けつけたのだった。
「どうしたんだ。大丈夫か?」
副島の顔を見たとたんゆりは涙ぐんでしまった。付き添っていたゆりの母親が、
「副島さん、お忙しいのに御免なさいね。この子は本当にそそっかしいんだから」と謝るように言った。
「いえ、ゆりさんの顔を見て安心しました」
副島はホッとした表情でゆりの手を握った。
母親は何か飲み物を買ってくるからと病室を出て行った。
「御免なさい。どうしてこうなったのか自分でも分からないの」
「で具合は?」
「腰の骨に罅が入っていて歩けるようになるのに一ヵ月、リハビリに一ヵ月かかると言われたわ」
「本当か、それは大変だな。で、どんな状況だったんだい?」
「それが変なのよ。階段を下り始めてすぐに後ろからゆりさんと呼ばれた気がしたの。それで振り向いたら誰もいないから気のせいかとまた下りようとしたんだけど,その後のことを全く覚えていないの。気がついたら階段の下で蹲っていたわ」
「空耳だったのかい?」
「多分ね」ゆりがそう答えた時、副島はサイドテーブルの上に置かれているペンダントに気づいた。
「事故の時、これをしていたのかい?」
「ええ」
「・・・きっとこれのせいだよ。やっぱり僕に返したほうがいい」
「考えすぎだわ。これはあなたから貰った大切なものよ。そんなことあるわけないじゃない。それはいやよ、絶対にいや」
ゆりは真剣な表情で訴える。
「全く、仕方ないな。まあいいだろう。とにかく気をつけるんだよ」
「はい、分かりました。申し訳ございませんでした。係長殿」
いつものゆりに戻っていた。
つづく
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