2. 春の訪れには早すぎる

 ガラガラと玄関の引き戸を開けると、肌寒さがしっとりと敢介の体を包み込んだ。

 はぁ、と息を吐いてみると、一瞬白く濁るものの、すぐに掻き消える。冬場というほどに寒いわけではないが、春の暖かさにはまだ遠い。そんな感覚だ。


「伊恵理、早くしろー」


 現在時刻は七時五十分手前。

 始業時刻は八時半であり、寮から学園までは二人の足で約三十分。なので今の内に出発すれば、道中で急がずに済む。


 寮の門前で伊恵理を待ちながら、ふと敢介は彼女に思いを巡らせた。

 和登伊恵理という女の子は、早い話が敢介の幼なじみだ。

 隣の家に住んでいて、実は親同士も生まれてこの方の付き合いとかで、幼い頃から一緒に育てられるのはごく自然な流れだったという、兎にも角にも、絵に描いたような〝幼なじみ〟なのだ。


「お待たせ、おかん!」


 小学生の頃から変わらない台詞と共に、制服姿の少女がポニーテールを揺らしながら現れた。

 長く艶やかな黒髪と、卵形の白く凜々しい顔立ちが特徴の女の子だ。細身ですらりとが高く、敢介とは頭半分ほどしか違わない。

 身だしなみをきちんと整えた伊恵理は、学校案内のパンフレットから飛び出してきたかのような美少女だった。


「ん? どしたの、おかん。私の顔に何か付いてる?」


 雪解け水をパチャパチャと踏んで歩く伊恵理が、いちいち水溜まりを迂回する敢介を振り向く。

 いや、と敢介はプライベートモードの無表情で、


「今日も絶好調に可愛いなぁとか思っただけだ」

「にゃはは、そんなに褒めないでよぉ」

「本当に……見た目だけは完璧なんだよな、お前って」

「他のところは足りてないと!?」


 実際、その人形のように綺麗なビジュアルと賑やかなキャラクターとの間にギャップを覚えさせられないでもない。ただ、同時にそれこそが伊恵理らしさだとも感じさせられる。

 おかんの意地悪ぅ、と素直に唇を尖らせることができる辺りは、むしろこの女の子の美点とも言えるだろう。内側に抱え込まれる方が、かえって厄介だ。


「でも私は、おかんのこと大好きだよ。綺麗好きで料理上手で、それでそれで……とにかく家庭的なところとか!」

「お褒めにあずかり光栄だが、もうすぐ高二になるんだ、そろそろ身の回りのことくらい自分でできるようになったらどうだ?」


 うっ、と伊恵理は笑顔を引きつらせた。やはり敢介をおだててその辺りの事情を有耶無耶にさせるつもりだったのだ。

 はぁ、と敢介は呆れて溜息を漏らす。


「来月には新しく寮生も入ってくるんだ。いつまでも俺にべったりだと、後輩に示しが付かないだろ」

「でもおかん、私がやらなくていいって言っても、勝手に色々やっちゃうじゃん」

「そりゃあ俺がやらないと、お前、部屋は散らかし放題だし、洗濯物も貯め放題、結局最後は俺のところに泣きついてくる。……何か申し開きすることは?」

「あ、ありません……いつもありがとうございます」

「礼なら言葉でなく行動で示して欲しいものだな」

「今度からちゃんとやるもん!」


 それよりも、と伊恵理は露骨に話題を変えてくる。

 向かい側の道を集団登校する顔なじみの小学生たちに手を振りながら、


「新しい寮生って女の子? 可愛い子?」

「女とは聞いてる。高等部から入ってくる外部生だ。会ったことはないから顔は知らん」

「女の子はみんな可愛いんだよ! 毬藻先輩が卒業しちゃって伊恵理ちゃんハーレムも寂しくなっちゃうところだったけど、そっかぁ、可愛い女の子が入ってくるのかぁ」


 うっとりと頬を染める伊恵理を、敢介は醒めた目で見つめる。


「〈日出荘〉はお前のハーレムじゃないし、俺ら男子も普通にいるし、それ以前に可愛い子を侍らせたいなら、まずは自分がそいつらに好かれるに足る女として、きちんと自立することをだな――」

「こ、これからちゃんとやるもん!」


 耳にタコができるくらい聞いた台詞だが、実際に〝ちゃんとやる〟のはいつになることやら。

 澄んだ青空を仰ぎながら、敢介はまだ見ぬ未来へと思いを馳せた。



          ◆



 片道徒歩三十分という距離は、慣れてしまえば、長いようで短い。むしろ軽い運動にもなって、以前よりも体力が付いた実感があるくらいだ。

 ましてや隣には、音楽プレイヤーもお役御免なくらいに、エンドレスにお喋りを続けてくれる道連れがいる。


「――でね、レーチったら保健委員の女の子からメールをもらっただけで『おっと、女の子からベッドへのお誘いだ』ってキメ顔で言うんだ。笑っちゃうよね」

「大方、古くなった備品の買い換えについての相談だろう。東校舎の保健室のベッドだったかな、寝返りを打つだけでギシギシ言うから良からぬ誤解を受けるって、苦情が来てるらしいぜ」


 共通の友人――今朝は用事があるとかで先に登校しているもう一人の幼なじみが話題に上ったのは、周囲に同じ有斐丘学園の制服を着た生徒たちの姿が増えてきたからだろう。

 いちおう既に卒業式は済んでいるので、普段より交通量の少ない歩道は比較的スムーズに流れている。嵐の前の静けさだ。これが来月になると、今度は右も左も解らない新入生たちの群れでたちまち大渋滞を起こす。もはや春の風物詩と言ってもいい。


「おかんは、今日の一限目、何なの?」

「選択授業の美術。まぁ適当な映画を流して、それっぽい解説を述べてくれるだけだろうな」

「あ、楽しそうでズルい。ええと、私は……ああっ、思い出した! 私、今日の一限目は休講だよっ、別に早起きする必要なかったんじゃん!?」

「二度寝せずにちゃんと二限目に間に合う自信もあったと?」

「…………なかったです。起こしてくれてありがとうございます」


 口ではそう言いつつも、どこか釈然としないと表情に出しながら、伊恵理がトボトボと昇降口に向かう。

 景気づけに伊恵理の頭をポンポンと叩きながら、敢介も自分の下駄箱へと辿り着く。そして何気なく扉を開けたところで、


「……何だこれ」


 上履きの上に淡いピンク色の封筒が載せられていた。宛名は敢介で間違いなく、裏面にはご丁寧にハート型のシールで封がされている。となると、その正体はある程度限られてきそうだ。


「どしたの? おかん。……って、それ――」


 伊恵理が目を丸くして息を呑む傍ら、敢介は軽く眉をひそめながら、


「ラブレター、かもしれないな」


 今時珍しい、というのが敢介の抱いた率直な感想だった。 

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