俺はお前のおかんだからな

亜銅鑼

【序章】始まらずに終わった話、或いは終わりが始まる話

1. 朝は忙し急げよ乙女

 ――さて、戦争の時間だ。


 襖を開けるなり、ふっ、とうさ敢介かんすけは口許に笑みを零した。


 六畳間の和室、その中央に居座っているのは、布団拵えのアルマジロ。敵は籠城戦の構えだ。

 時節は三月の半ば。既に雪は融けつつあるとはいえ、朝の冷え込みはまだまだ厳しい。

 しかし寒さをものともせず、敢介は得物を構える。チタン合金のフライパンとステンレス製のお玉。もはや拭えないほどに淡く曇った表面は、共に過ごしてきた時間の長さと厚さを物語るものだ。


 最後通牒だ、と敢介は感情を込めずに淡々と告げる。


「――起きろ、今すぐに」


 静かな、それでいて重い響き。不退転の覚悟を秘めたその声音に反応してか、丸っこい物体が微かに身じろぎする。


 やがて布団の内側から、女の子の甘えるような声が返される。


「うぅん……あと五時間」

「寝言は寝て言え」


 それが開戦の合図だった。もう容赦する必要はない。

 かんかんかんっ、と鈍くも甲高い音が空気を震わせる。フライパンの底をお玉で勢い良く打ち付けている音だった。


「起きろー、さっさと起きろー、今すぐ起きろー」

「う、うぅぅ……」


 金属音の合間を縫って、少女の呻き声もまた漏れ聞こえてくる。

 毎朝のことながら、なかなかどうしてしぶとい。

 はぁ、と敢介は溜息を漏らした。布団越しにも聞こえる大きさで。


「ったく……もう目は覚めてるんだろ。早く下りて来いよ」


 そう言って、わざとらしく足音を立てながら廊下に出て――音もなくフライパンとお玉を床に下ろすと共にそっと部屋の中へ戻り、こつん、と再び音を立てて襖を閉める。


 これでもう敢介は出て行った――と見せかけて。


「おらっ!」


 一切の躊躇いを覚えず、むしろ嬉々として、勢い良く掛け布団を引き剥がす。

 途端、甲高い悲鳴が上がった。


「ふぎゃあああっ!」


 ぬくぬくとした鎧を強制パージされて泡を吹いたのは、長い黒髪を盛大に跳ねさせた少女だ。

 花も恥じらう女子高生――と言えば聞こえは良いが、こうして寝起きの場面だけを切り取れば、ただの手の掛かる子どもだ。


「おはよう、伊恵理いえり。気持ちの良い朝だぞ」

「お、おはよーごじゃいましゅ……おかん」


 少女の名前は和登わと伊恵理。かちかちと歯の根が合わないながらも、きちんと挨拶を返してくる辺りは、敢介による日頃の教育の賜物である。


「じゃ、さっさと顔を洗ってきな。寝癖直すのは後で手伝ってやるから」


 そう言って敢介が踵を返すと、


「う、うん……ところでさ、おかん」

「ん?」

「何でいつも、そんなに楽しそうなの?」


 楽しそう、なのだろうか。敢介は眉根を寄せる。

 少し考えて、自分なりに合点がいく答えが見つかった。


「面倒臭さを通り越して、いつの間にか新しい扉が開けてたっつーか」

「おかんが悟った目をしちゃってる!?」


 素っ頓狂な声を上げる幼なじみを尻目に、少年はフライパンとお玉を携えて階下のリビングへと戻っていく。


 そんな、特別でも何でもない、ごく平凡な朝の始まりだった。



          ◆



 共用のリビングでは、敢介と同じ寮生の一人がちょうど朝食を終えたところだった。


「ごちそうさま。今日も美味しかったよ、おかん」

「俺はあんたのおかんじゃねえ」


 ――私立有斐丘ゆうひがおか学園・生徒寮第27号棟〈日出ひので荘〉。

 名前から醸し出されてる古めかしさを裏切らない、築五十年を数える二階建ての和風住宅だ。


 ただでさえ古めかしい上に、肝心の校舎までは片道約三キロという不便さもあって、決して人気の物件とは言い難い。

 他寮に唯一確実に優っている点があるとすれば、六畳間を一人で使わせてもらえることくらいだろうか。不人気ゆえの余裕という辺りが実に皮肉だが。


「もう一つあるだろう? この寮では、我らがおかんが朝夕手ずから料理を振る舞ってくれる。おかげで私はもう、君がいないと生きていけそうにない」


 そう芝居がかった口調で言ったのは、来週末には寮を出る予定である三年生――もとい卒業生の指原さしはら毬藻まりもだ。さっぱりとしたショートヘアと耳許で赤く輝くピアスが特徴の、ちょっと大人びた雰囲気の美人。


「だからおかんじゃないと……ていうか、どうして制服着てるんです?」

「ん? いや、委員会の後輩に私がまだ寮生活を続けているとバレてしまってね。応援を頼まれてしまったんだよ」

「確か毬藻先輩は図書委員でしたよね? ああ、新年度に向けて蔵書の整理ですか」

「うん。だから私も精一杯声を張り上げてエールを送ってくるよ」

「応援ってそっちかい」


 いつものことながら頭の悪そうな会話だとは思うが、こういう機会も残り僅かと思うと名残惜しい――とはやっぱり思わなかった。むしろ手の掛かる寮生が一人減って助かるくらいだ。


「君のそんな憐れみの込められた視線に耐えきれないから、私はそろそろ登校するよ。おかん……そんなに睨むなよ、こほん、敢介くんも遅刻しないようにね」

「それはあいつ次第ですね」


 ドタドタと階段を駆け下りてくる音に苦笑する毬藻と入れ替わりに、制服こそ着ているものの腰丈まで届く長い髪は寝癖だらけの女の子がリビングへ飛び込んできた。


「おかん、朝ご飯! あと髪やって」

「解った解った。まだ余裕はあるから、ちゃんとよく噛んで食べろよ」

「うーい」

「返事は、はい、な」


 そんな高校生の男女の掛け合いに、毬藻がけらけらと笑い声を上げる。


「君は本当に伊恵理ちゃんのおかんだね」

「……ただの腐れ縁ですよ」


 ふん、と敢介は鼻を鳴らすと、伊恵理の跳ね放題の髪にブラシを通した。

 どこに出しても恥ずかしくないポニーテールが結われるまでに、およそ七分間を要した。

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