自転車と旅人
日はすっかり沈んでいる。山道。車の通りは無く、片側には木々が生い茂っており、もう片側には断崖絶壁。そんな場所ながら、大学生ぐらいの若い男が上機嫌で、口笛を吹きながら自転車を漕いでいた。人のいない夜の山道でこうしているのがこの男の密かな楽しみだ。
機嫌が別段に良ければ男は声をだして歌を歌うこともがあった。今日がその別段に機嫌が良い日だ。
森の館、日は沈み、暖炉に火が灯る。
暖かい食事と、愉快な音楽が君を待ってる。
楽しげに踊る小人と、時には可憐な踊り子も君を待ってる。会えるかもね、館へと誘う案内人に。
男は歌っていると、前方に大きなリュックサックを背負った髪の長い女がいることに気が付いた。
男は自作の歌を聞かれてしまって、顔を赤らめたる。誰も聞いていないと思ったのに。
だが女は男の方を振り返ることもせずに、前へと進んで行く。不自然だ。夜道で歌声が聞こえたら少しは気になるものだろう。だが女を見て、男は合点がいった。あの長髪、毅然とした佇まい。あの女は遥か昔の級友じゃあなかろうか。彼女は周りを気にしない性格だった。
男は自転車で女を脅かさないようにちかづいて声をかけた。
「夜分遅くにすいません」
「わっ! えっと、」
女は目を見開いて男のことを見ている。男と同程度の若い女だった。
「驚かせて申し訳ない。もしかしたらあなたが知り合いかもしれないと思って話しかけたんですよ」
「そ、そうでしたか」
女は男が自分の知り合いと聞いてピンとこない様子だった。
「田中です。覚えてませんか?」
女は少し考えると、ハッと何かにきがついたような顔をした。
「田中君? 確か小学校で......」
「そうそう。小学校二年の時に同じクラスだった。憶えられてなかったら僕はただの不審者だ」
男がそういうと、女は声を出して笑った。二人の間の緊張は一瞬で融解したみたいだった。
「あのね、田中君。私、すっかり道に迷ってしまったみたいで」
唐突に女は男に相談を持ち出した。
「だろうね。夜中にこんな所を歩いている人はなかなかいない。僕だって自転車に乗ってるのに」
「だよね。あはは。その、よかったら駅まで案内してくれないかな?」
「いいよと言いたいところなんだけど。ここら辺はもうすぐ霧が深くなるんだ。歩いていると危険だから僕の家に来た方が安全かな」
それとなく男は提案した。
女は逡巡する様子を見せる。遥か昔の級友。それも異性の家に泊まってもいいものだろうか。
「う、うん。わかった。田中君がいいなら、そうさせて」
背に腹は変えられないと考えたのだろうか。女は承諾した。
「じゃ、案内するよ」
男は嬉しそうに答えた。
男は自転車を降りて、女と並んだ。男は女を自分の家へ案内して招き入れた。
遠方からの旅人である女はここら一帯が失踪事件多発地域ということを知らなかった。後に自分が「森の館誘拐事件」の被害者になるということも。
だって田中なんて日本のどこの小学校にも一人はいるし、男は女の名前を一度も口にはしなかった。信じるに値する要素は一つもない。
ついでにもう一つの事件を紹介しよう。「心療内科『森の館』皆殺事件」。男はそこに拘束されて幽閉されていた患者の一人だった。
人のいない夜の山道でこうしているのがこの男の密かな楽しみだ。
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