武蔵境と中村先輩

かたなかひろしげ

第1話 武蔵境と中村先輩

 中央線のホームは、ここ数日続いている真夏日の日差しに炙られ、じっとりした熱気で私の全身を包んでいた。

 今から向かう客先は武蔵境駅にあり、都内から中央線に揺られていくのが、今日一日の仕事である。


 高校を出てすぐに地元の企業に就職してしまい、それは大層、両親を失望させた私だったが、程なくその地元企業は都内の会社に買収された。

 都内のそれなりの規模の企業の正社員という立場を、いわば棚ぼたで手に入れた私に、両親はかなり喜んだ。しかし私は慣れ親しんだ千葉での田舎暮らしが長く、いまだに東京暮らしには慣れずにいた。


 今日も都内の事務所を出て、客先のある武蔵境に向かっている。


 飯田橋駅の中央線のホームは、ハンカチで汗をぬぐうスーツ姿のサラリーマン達が数人、私の他にも電車を待っている。ホームには、殆ど今日の強烈な日差しから隠れられる屋根はなく、数分は太陽に焼かれる覚悟が必要だった。


 周囲は高層ビルの立ち並ぶ都会だというのに、どこからか蝉の鳴き声がする。



 思えば、生まれも育ちも千葉である私に、先輩社員の中村さんは東京での過ごし方をよく教えてくれた。新しい会社に異動してからというもの、私は中村先輩に、ほぼつきっきりで仕事を叩き込まれていた。

 今から行く客先も、元々はと言えば中村先輩のお客様であり、それを先日に急遽、私が引き継ぐ羽目になったものだ。


 急遽。という言葉を選んだのは他でもない。中村先輩が突然退職したからである。

 今回の客先訪問の目的は、そのお詫びと説明にいくといういわばお詫び行脚。


 それは客先からしてみれば、当然寝耳に水の話である。

 さぞかしお客様もご立腹かと思いきや、営業の話を伝え聞く分には、あまり怒っているという風でも無いらしい。

 そんな事情もあり、以前から先輩に付いて訪問していた私が、そのまま後任となる連絡をする体で、今日は上司もひき連れずにお詫び訪問をしているわけである。


 地元が武蔵野近辺であるという中村先輩は、武蔵野の話題をよく私にしてくれた。


 先輩は自分語りが好きで、大半は大学でのやんちゃ話や、本当かどうか疑わしい武勇伝が中心だったが、先輩の話はとてもうまく、私もその殆どを楽しく聞き流していた。


 ホームに到着した電車のドアが開くと、効き過ぎたエアコンの冷たい風が顔に吹き付けられる。

 そのままありがたく乗り込み、空いていた座席に陣取り人心地すると、いつぞやも、中央線の車窓から釣り堀に興じる人を観ながら、中村先輩が軽妙な口調でまくしたてていたことを思い出す。


 「ホラ、俺っておしゃべりだろ。これがなんか信用されてないって感じることあるんだよな。」


 「そんなことないですよ。先輩は客先にかなり信用されてますよ。」


 「そうか? まあ客先だけじゃないんだけどな。まあいいんだけど」


 武蔵境駅までは同じ都内であるし、そう遠い距離ではない。

 程なく到着した武蔵境駅を降りると、その足でそのまま北口を出る。


 先輩の昔話によると、これでも駅前はもう少し緑が多かったらしい。だが、今見る限りでは都内のベッドタウンとしては、周辺の他の駅とあまりわらぬ光景になっている。

 駅前は幾ばくかの飲食店が立ち並び、駅前を少し離れれば、すぐにも住宅街が広がりを見せる。学校が多いのは、暮らしやすい証拠だろう。


 客先までは駅から15分ほど歩くことになる。

 武蔵境の駅を出て、北口から伸びる武蔵境通りを玉川上水まで歩くのは、なだらかな直線であり、散歩にも良いコースだ。

 桜橋を渡り、玉川上水を越えて少し路地に入った先に、客先の事務所はある。


 到着する頃には、作業着を兼ねたスーツの下は、じっとり汗で張り付くシャツの蒸気により、男の匂いで蒸されている。

 額から落ちる汗をハンカチで雑に拭った後に、客先の担当者とその上司に詫びを入れた。


 「この度の中村の件については、すみませんでした。」


 「あ、はい。

 それについては・・当方はもう気にしてはおりませんので。

 それはそうと、中村さんはどうして辞められたのか、そちらはでは聞いてますか?」


 「実は私もあまり詳しいことは聞いておりません。

 お客様に連絡もなく、私に引き継ぎも無しに中村が退職したことについては、本当にご迷惑おかけしてすみません。」


 「あ。いえいえ。ご存知なければそれでいいんです。」


 強めに効いたエアコンが、私の湿気たスーツを冷気で満たす。

 客先を出る頃には、応接室の窓から、もう西日が差していた。



 ───なんだったのだろうか。


 帰り道に、先程のやりとりの、なにか含みのある言葉を思い返し、ふと考え込む。

 一方的に引き継ぎもなく担当を変えたのに、ほぼ不問にされることなど、殆どないはずだ。

 その上、以前の担当の消息を確認するでもなく、退職理由だけを確認されたことにもなにか違和感が残る。



 ひとしきり歩き、玉川上水を越える桜橋の信号に着いたところで思考が途切れ、ふと先輩のことを思い出す。

 この街と、先輩との思い出は、どうにもきれない。


 私は桜橋のそばの植え込みに歩みを外れる。

 植え込みの影には誰のものとも知らぬ碑があり、その前で、紫煙をくゆらせながら休憩をするのが、先輩とのいつもの慣習だった。

 そう、要はサボりだ。


 夏の終りも近いというのに、武蔵境でもまだ緑の濃いこの辺りは、鳴り続ける蝉の声も一層の必死さを増している。

 思えばあの時も、蝉が執拗に鳴き続けていた。


 「毎回来てますけど、こんなとこでサボってもいいんですか?」


 「なあ。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす。ってことわざ知ってっか?」


 いつものようにはぐらかされた。


 「知らないです。」


 「だよなー。俺もこないだ聞いたし。」


 「なんですかそれ?」


 「ひみつだ。気になるならぐぐっとけ。

 まあ。その、なんだよ。

 鳴かずに黙ってる蝉の情念も捨てたもんじゃないと俺は思うんだがな。」


 先輩は何かを考えているような風であったが、ふっと表情を変え、悪い顔で笑いながら、飲みかけの缶コーヒーを碑のそばに置いた。


 「喫煙場として使わせてもらった駄賃だ。」



 思えば、これもよくわからない会話だった。


 普段の先輩は、スーツこそ着ているものの、口を開けば夜の繁華街をゆくホストと大差ない物言いで、かなりフランクな人当たりをする。

 ところが、こうして二人でどこかに移動していると、時折、似合わない───と一度言ったら怒られたことがあるが、突然、文学的な喩え話や諺を使って、私をからかってくることがあった。


 当時のことを思い出し、苦笑いしつつも携帯灰皿でタバコの火を消す。

 そのまま以前の先輩のように、私にはちょっと甘すぎる缶コーヒーを少し残し、いまだに誰だかわからぬ碑の前に、ささやかな貢物として置く。


 「これ置くのも、私だけの役割になったか。」


 桜橋を渡り、玉川上水を越えると、申し訳程度に植えられている街路樹以外に、日差しを避けるところは殆どない。


 暴力的な日差しにより、日中に温められたアスファルトが、武蔵野通りをゆく私を足元からじりじりと焼く。

 そんな退屈な時間を、先輩とのそんな昔話を思い出して埋めていると程なく、武蔵境駅前にたどり着いた。


 歩いてきた武蔵境通りは、駅前に近づくと何故か、すきっぷ通りという名前に変わる。

 武蔵境駅前の通りなのだから、そのまま武蔵境通りで良いと思うのだが、いまだにその理由はよくわからないままだ。世の中にはわからないことだらけである。



 蒸れたスーツの胸ポケットからスマホを取り出し、会社に電話をする。


 「お疲れさまです。先程、退館しました。このまま直帰します。」


 電話には、同じ課の社員が応答してくれた。私より2年前に入社した、仕事の出来る人だ。


 「それはお疲れさまです。了解しました。あの・・」


 「はい? なにか連絡事項がありましたか?」


 言い淀んでいる様子だったので、聞き返した。


 「なにかお客先に言われませんでしたか?」


 「そういえば・・中村さんについて尋ねられました。

 やめた理由を知ってますか?と。」


 「そうですか。実は・・・」



 すきっぷ通りも、そのまま武蔵境駅に近づくと街路樹以外の樹木はほとんど無い。

 それでも逞しい蝉がいるのか、夕焼けのはじまった空の下、熊蝉が粘りつくような声色を、駅前広場に響かせている。


 先程の会社の話では、先輩は、先の客先の社員の娘と結婚し、何も言わずウチの会社を退職したらしい。



 「───そんなわけで、承知しておいてください。

 今回みたいな辞め方は、本当に迷惑ですよね・・」


 「いいえ。自分は特に迷惑していませんから。」


 「え・・?」


 私の反応に、電話口からは、いぶかしげな声が返る。

 こういう答えが私から帰ってくるとは、想定していなかったのだろう。


 微妙な空気を察したか、通話はそれから早々に終わった。

 庇うつもりは毛頭なかったが、先輩を悪く言われるのはどうにも居心地が悪かった。



 ───鳴かずにいなくなる蝉も、きっとなにかを想っている。


 あの時、少しかすれた声で、先輩がドヤ顔で語る姿が、瞼に浮かんだ気がした。


 駅前広場からは、いつしか蝉の声も聴こえなくなっていた。

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