快適は、時にお節介となる。

 19:02






 ホテルの最上階に位置する、30階。


 その階すべてが、ひとつの部屋になっていた。


 俗に言う、スイートルームである。


 リビングは白を基準とした色合いと大きな窓ガラスで、客が来るのを待ちわびていながらも、その落ち着いた姿勢を保っている。


 ポーン


 やがて、エレベーターの扉が開いた。




「す……すっげえ……」


 大森はそのリビングに圧倒されるようにため息をつく。その目は、まるで純粋な少年のように輝いていた。


「とりあえず、荷物を置くよう」


 晴海はエレベーターを下りると、近くにあったテーブルにハンドバッグを置く。そしてハンドバッグを開けて中からスマホと充電器を取り出した。


 そのハンドバッグには、拳銃のようなものや、青いムチのようなものも見えた。


「晴海先輩、机の引き出しにパンフレットがあったんですけど、読みます?」

 ハンドバッグを閉じていた晴海に、大森は近くにあった机の引き出しから取り出したパンフレットをみせていた。

「後でいいよお、それよりも、あたしは他の部屋を調べているからあ」

 そう言いながら晴海は机に付いていたコンセントに充電器を差し込み、スマホを置くと別の部屋に向かって歩いて行った。




 ほんの少しだけ、静寂が続く。

 リュックサックをハンドバッグの横に置いている大森は、ソファにもたれかかってパンフレットを熟読していた。


「へえ……ここの下にジムがあって、さらに下はプールがあるのか……」


「大森さんって、体を鍛えるのが好きだったよねえ。さっそく行ってきたらどおう?」

 もう部屋の探索を終えたのか、戻ってきた晴海が話しかけてくる。

「少し体を休ませたら行ってきますよ。ところで晴海先輩、部屋はどんな感じでしたか?」

 まだ読み切れていないのか、パンフレットから目を離さないまま答える。

「それがねえ……寝室のベッドの他に布団もあったんだよねえ……最初は大森さんがバスルームで寝る予定だったけど、これなら安心だねえ」

 その言葉に、大森はパンフレットから晴海に目線を移した。

「……それって移動時の退屈を紛らわすための冗談じゃあなかったんですか!?」

 晴海はそれに答えずに、リビングから見えるキッチンに向かって歩き始めた。

「夕食は確か、冷蔵庫に入れてくれているんですよねえ」

「は……はい、献立は聞き忘れていたんですけど、たしか5つ星のシェフが作ってくれているらしいですよ。なんでも、開業したらホテルの2階に移転してくるらしいですけど……」


 晴海からの返事はなかった。


 それどころか、数分たっても戻ってくる気配がない。


「晴海先輩……?」


 大森はパンフレットを閉じて、キッチンに向かった。




 キッチンでは、晴海が冷蔵庫を開けたまま、固まっている。


 冷蔵庫は開けっ放し防止のブザーを鳴らしている。


 ぴて……


 ぴて……


 晴海の足元に、水が滴り落ちる。


 紛れもない、晴海の唾だ。


「ほーれんちょう……ほーれんちょう……」


 晴海は冷蔵庫の中にあるものを見ながら、ぶつぶつとつぶやき、唾を落としていた。


 冷蔵庫の中には、ほうれん草のおひたしがあった。




「ぜえ……ぜえ……」


 エレベーターの中、大森はリュックサックを背負って息を切らしていた。


「あぶねえところだった……晴海先輩って、ほうれん草のことになると、狂った化け物のように凶暴になるんだった……」






 19:30






 静寂を保つスイートルームのダイニングルーム。


 そのテーブルの上にあるのは、ほうれん草のおひたしだけだ。


 イスに腰掛けている晴海の手は、祈る時の形を作っていた。


 祈る相手は、おそらくほうれん草に携わったすべての存在であろう。


「……いただきます」


 静かに顔を上げ、晴海は箸を手に取った……




 どこからか穏やかな音楽が鳴り始めた。


 その音楽は、晴海の横の壁にあるスピーカーから流れていた。




 ドガアッ!!


「……」


 晴海の表情が無表情のまま、青ざめた。

 晴海の足が、奥に食い込んだスピーカーとヒビの割れた壁から恐る恐る離れていく。


 それでも、スピーカーは音を出し続けていた。雑音ではあるが。


 その近くに、赤いボタンとマイクと思われる小さな穴が空いていた。

 晴海は赤いボタンを押しながら、マイクに叫ぶ。


「音楽、消してくれませんかあ? あたしはほうれん草を食べるときは、静かじゃないとダメなんですよう」


 雑音はすぐに消えた。






 19:45






 最上階から2階下りたところには、プールとなっている。


 ファミリー向けのような変わった形のものではなく、長さ50mほどのプールが用意されているだけだった。

 その大きさから推測するに、スイートルーム専用のプールなのだろうか。


「うっっっひょおおおお!!! 貸し切りだあああ!!!」


 そのプールに向かって、水着姿の大森が走ってくる。そして、大きく跳躍し、プールの中へとダイブした。


 ※よいこの子供たち、大人たち、もしかしたらいるかもしれない変異体の方々は決してマネしないように。


 大森は平泳ぎ、クロール、背泳ぎ、バタフライとさまざまな泳ぎを15分ほど行った後、プールの隅にある側壁に手を置いた。

「なんかひとりではしゃいでも……張り合いがないな…….ん?」


 その手の近くに、赤いボタンとマイク、そしてスピーカーがあった。


「そういえば、ここのホテル、スマートスピーカーを搭載しているんだよな……この赤いボタンを押せばいいのか?」

 大森は赤いボタンを押しながら、

「ひとりで泳いでいると退屈だ。何か面白い機能とかないのか?」

 と、マイクにたずねた。


「逆流モードハイカガデショウカ?」


 スピーカーから、奇妙な声が聞こえてきた。

「逆流モード? なんだかよくわからんが、とりあえず頼むぜ」

 大森が言った瞬間、水の流れが突然代わり、体が倒れそうになる。


 その流れは、大森のいる場所へと、押すように動いていた。

「逆流ってこういうことか! おっしゃ! 燃えてきたぜえ!!」

 大森は滝を登るがごとく、バタフライを始めた。




 水の底には、大きなドアノブのようなものがあったが、彼が気づくことはなかった。






 20:30






 ポーン


「ふう……いい汗かいたぜ……」

 エレベーターに乗ってスイートルームのリビングに帰ってきた大森。彼の頭には銭湯よろしくタオルを巻いていた。

「湯加減はどうでしたかあ?」

 晴海はソファーにもたれかかりながらたずねる。

「はい、ここの風呂って肩こりにちょうどよくて……って、俺が行ったのは大浴場じゃなくて、プールですよ!」

「それじゃあ、楽しめたあ?」

「がっつりですよ! 晴海先輩の方は美味しくいただけました?」

「がっつり……だよねえ……ただ、少しだけおせっかいなところが……」

 晴海は苦い顔をしながらキッチンのある部屋を向いた。

「おせっかい……スマートスピーカーのことですか?」

「……ううん、なんでもないよう」




 プルルルルル




 その時、大森のスマホが着信音を鳴らした。

「電話、なってますよう」

「オーナーからか? 晴海先輩が出るとたぶん気分を悪くしそうですから、俺がでますね」

 大森はスマホを手に取り、タッチすると耳に押し当てた。


「もしもし」

『ああ、大森さまでいらっしゃいますか?』

「はい、そうですけど」

『いかがでしょうか? 当ホテルのスイートルームは』

 その声に大森は頬を緩めた。まるでその言葉を待っていたかのように。

「もう大満足ですよ! 特にあのスマートスピーカー! プールで使ったんですけど、あの逆流モードが……」


『……は?』


 オーナーの困惑するような一文字に、大森は眉をひそめる。


「えっと……ほら、ここのホテルの売りである、全ての部屋に搭載しているスマートスピーカーのことですよ。ボタンを押してしゃべるやつ……」

「……? あ、ああ……そのことなんですが……でもおかしいな……」

「?」




「言い忘れていたのですが、まだスマートスピーカーはんですよ。従業員の失踪が起きたのが、テスト段階だったので……第一元から、ボタンをつける予定はなかったんですが」




「……」


 大森は黙っていたが、そんなはずはないと表情に書かれている。

 自分は確かに、あのスピーカーとボタンを見かけた。そしてボタンを押し、話しかけ、実際に声が聞こえてきたのだ。

 怒りという感情ではなく、ただただ不思議がる表情が、そう語っているようだった。


「大森さん、まだ後ろを振り向かないでねえ……まずは例のゴーグルを装着してえ……」


 横から話しかける晴海の言葉に、大森は何かに察したように目を見開いた。

 そのまま振り返らずに、胸ポケットからゴーグルようなものを取り出し、かけた。


『本来ならばファミレスで伝えるべきでしたが、内容を忘れていまして……大森さん? 聞こえてますか?』

「あ……ああ、すみません、後でいいですか?」

 大森は受話器を置き、テーブルからリュックサックを手に取った。




 振り返った先には、2mほどの影が立っていた。

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