4.3 逃げよう

 これは小月さんをもとに戻すためにやることだ。よこしまな気持ちを持ってはいけない。邪念を捨てろ、俺。


 今握っているのは小月さんじゃない。長年連れ添った俺の相棒、『千穂ちゃん』だ。今やるべきことはなるべく短時間で元気な『千穂ちゃん』をなだめる。それだけだ。


 集中。

 小月さんをもとに戻すんだ。


 いくぞ、と心の中でつぶやいてゆっくりと上下動作を開始する。これは『千穂ちゃん』。小月さんじゃない。そう何度も自分に言い聞かせながら。


 こしこし。

 

「えと、ちょっと痛いかも。少し力弱くしてもらっていい?」


「……」


「あれ、池辻くん? 聞いてる? 肩とか、あいた、ちょっと弱く、あの、痛い痛い」


「……」


「少しよわく、ああああぁいったぁぁあああいっ! やめて! ストップストップ! 腕もげる!」


「……」


「もがっ! はほふふへへふっ(かお潰れてるっ)! ひひへひはひ、ひふっ(息できない、死ぬっ)!」


 一旦手を止める。

 

「……小月さん少し黙ってて。集中できない」


「いいからストップ! 死ぬ」


「小月さんは簡単に死ぬ死ぬ言い過ぎ」


「違うって! これはほんと!」


 見ると小月さんは着ている服が大きくはだけ、髪を振り乱して座り込んでいた。


「な、どうしたの、小月さん! 誰がこんなひどいことを!」

 

「池辻くんだよっ!」


「え、ほんと? ごめん、集中してて気付かなかった」


 申し訳ないことをしてしまった。


「いいよ。こんな激しいものだと思わなかった。普段からこんななの? 痛くないの? でもこの方法はだめだね。やっぱり私がするしかないのかな……あれ」


 ぽん。


 小月さんが元のサイズに戻った。


 慌ててトランクスの中、元に戻った『千穂ちゃん』のポジションを修正する俺。

 小月さんへの罪悪感を一緒に背負ったのか、今の『千穂ちゃん』も元気がない。

 

「あれ。なんか戻ったよ、池辻くん。よかった! でもなんでだろ?」


「多分小月さんの姿を見たせいかな」


 着衣が乱れ、苦痛からようやく解放された痛々しい小月さんの姿。こんなことがしたくて付き合ってるんじゃないのに。ごめんね、小月さん。


「今の私?」


「うん。萎えたんだと思う。ごめんね、小月さん」

 

 自分の服を確認して、あわてて服を直す小月さん。


「池辻くん、ちょっと後ろ向いてて」


「うん」


「あれ。……萎える? えと、私の姿見てたら元気なくなったってこと?」


 ごそごそと服を直していた小月さんがふと止まる。


「えと。今、私下着とかいろいろ見えちゃってたよね?」


「うん」


「それって普通、男の人は興奮するんじゃないの?」


「まさか。今の小月さんの姿にそんなこと思わないよ」


「……」


「でも、そのおかげで小月さんが元に戻ったんだと思う」


「……そいつはよかったね」


 やっぱりまだ痛むのだろうか。小月さんの機嫌がすこぶる悪い。


 小月さんが服を直し終わる。

 髪はもうだめっぽい。おだんごはもう見る影もなく、ただの盛大な寝癖みたいになってる。

  

「じゃあ行こうか」


「あ、スマホ忘れてるよ」


 俺の差し出したスマホを、めんどくさそうに横目で見る。


「ありがと」


 一応お礼は言うものの、ぺしっと俺の手からひったくる小月さん。不機嫌でも可愛い。でもまずいなぁ。


「あ」


「なんでしょう、私が半裸でも欲情しない池辻くん」


「いや、なんでそんな。そうじゃなくてほら、スマホ」


「今はスマホなんていいでしょ!」


「よくないよ、ほらさっき録ってたでしょ。アプリちゃんと切っといたほうがいいよ」


「ああ、そっか。録音してたんだっけ。どうせだから、かつての優しかった頃の池辻くんの声を聞いて癒やされよう」


 疲れ果てた顔でスマホの緑のボタンを押す小月さん


「待って、悪い予感しかしない。今再生するのは待って――」


『ああああぁいったぁぁあああいっ! やめて! ストップストップ! 腕もげる!』


 大音量で先ほどの小月さんの叫びが再生された。

 小月さんとともに元のサイズに戻ったスマホからの大音量だ。

 

 トイレの前でざわめきが起きる。


「ど、どうしよう池辻くん」


「……逃げよう」

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