第16話:優しい忘却
ウィスティリアの町外れの森の奥には、数百年か数十年前から誰も住んでいない廃墟の協会がある。
数日前、どうしてそんな場所に行ったのか理由はわからないが、そこに迷い込んだオリビアと迎えに行ったアイザックとツバキが、劣化した建物の崩落事故に巻き込まれて帰って来た。
幸いにもオリビアは無傷で、アイザックとツバキも軽傷程度だったが、崩落現場で三人そろってしばらく気絶していたらしい。
よほど怖い思いをしたのか、外傷はなかったのだが、アイザックが連れて帰ってきてからずっと、オリビアだけは何故か目を覚まさないまま数日が過ぎていた。
***
BARのカウンター席に腰掛けて、ルークは顰めっ面でグラスを磨いているオスカーに声を掛ける。
「ねぇ、マスター。このBARで一番高いお酒ってどれ?」
「は? いきなりだな……そうだな、おまえらに出すには勿体ない、とっておきなら……」
磨き終えたグラスを片してから、奥のワインセラーに引っ込んだオスカーは、程なくして一本のワインボトルを抱えて戻ってきた。
「これだな。北にあった街、ガランサスの名産氷葡萄の超高級アイスワイン」
先までの顰めっ面から一転して、どこか得意気な顔をして語るオスカーに、ルークはへぇとワインボトルに好奇の目を向ける。
「……あった? もうないの、その街?」
オスカーの言い方が過去形だったことに気づいたルークが聞けば、オスカーは色付き眼鏡の奥の瞳を悲し気に伏せる。
「あぁ、残念ながらな。十、何年か前に滅びたって噂で聞いたよ……だからもう、生産もされていなくて、流通もしていない、これは超貴重な一本」
「そうなんだ……どう、アイザ? これを賭けて何か思い出さない?」
カウンターの端に腰掛けていたアイザックへ唐突に話を振ったルークの頭を、オスカーは鷲掴みにして凄んだ。
「おいこら、なに勝手なこと抜かしてんだルーク。こんな貴重な代物、おまえらにはやらないぞ」
「あっ痛い、痛いよマスタ〜、冗談〜冗談だから〜」
ルークの頭を片手でぎりぎり締め付けながら、また顰めっ面に戻ったオスカーは色付き眼鏡の奥からアイザックを睨めつけた。
「……それで、ワインはやらないが、お嬢の行動に何か心当たりはないのか、アイザ」
「だーかーらー、何もねぇってずっと言ってんだろうが」
あれからアイザックは、日々オスカーから説教を受けていた。
オスカーが顰めっ面になってグラスを磨くほど、数日は同じやり取りをアイザックと繰り返している。
「用もないのに、わざわざあんな廃墟に、お嬢が一人で行くわけないだろう」
お嬢が突拍子もない行動する原因は大抵おまえにあるんだよ、と理不尽な言いがかりをオスカーにつけられて、アイザックはうんざりしたように眉間に皺を寄せて投げやりに答える。
「知るかよ、あのお転婆の行動理由なんか。目を離したソフィアに聞けよ」
オリビアの侍女であるソフィアは今、眠るオリビアに付きっきりで片時も傍を離れない。彼女に様子を聞いたところ、オリビアは時折、魘されたように「やめて」「ごめんなさい」「助けて」と呟くらしい。早く悪夢から目覚めさせてあげたいところだが、原因がわからなくてはどうしようもない。
そっちはもう聞いた、とオスカーもやり取りに疲れたように返す。
今日も同じ平行線をたどる二人のやり取りに、話を振ったルークも諦めて宥めるように割って入る。
「まぁまぁ、マスター落ち着いて。アイザも、何か些細な事でもいいから思い出したら言いなよ」
お嬢が心配なのはわかるよ、と呟くルークに、オスカーとアイザックは揃って深いため息を吐いた。
「……ソフィアでもどうにでもできなかったら、あのやぶ医者を呼ぶ」
「チッ……背に腹は代えられないか」
やぶ医者? と聞き慣れない単語にルークは内心で首を傾げながら、なんだか苦々し気なオスカーとアイザックの表情を見て、深入りせずあえて聞かなかったことにした。
「お嬢が目を覚ましたら、マスターとアイザがすっごく心配して何も手につかなくなっていたよって、教えてあげよう!」
「おい、やめろ」
「余計な事言うな」
能天気なルークの言葉は、行き詰まった空気を散らし、少しだけ風通しを良くしてくれる。
妙にざわつく胸中を落ち着けるように深呼吸しながらも、アイザックは眉間に皺を寄せて黙り込む。
そう、これはなにも焦らずとも、オリビアが目を覚ましさえすればすべて判明することだ。わざわざ大事にすることでもない、危険性のある問題でもない、些細なことだ。
しかし何故だろう、あの日からアイザックには正体不明の奇妙な違和感が付きまとっていた。
それはオスカーも同様のようで、時折頭痛がすると呻いており、ルークだけが相変わらずのほほんとしている。
オスカーに問い詰められるまでもなく、アイザックだって不自然なオリビアの行動理由が気になってはいた。
数日前の夜、オリビアがいなくなったと巡回中にソフィアが呼びに来た。アイザックはその場に居合わせたツバキと共に、町中の心当たりを探し回り、町はずれの廃墟の協会でオリビアを発見し、運悪く劣化した建物の崩落に巻き込まれた。
言葉にすれば、それだけのことだ。
ただ、その場で具体的に何があったのか、どうしてオリビアがそんな所にいたのか、どうやってその場所に向かったのか、あの廃墟のことを考えようとすると何故か上手く思い出せない。
「……あそこ、いつから廃墟だった?」
ぽつりと零れ落ちたアイザックの言葉に、オスカーが眉を顰める。
「はぁ? いつ、って……俺たちがこの町に来る前から、ずっとだろう?」
「へぇ、そうなんだ。俺は、あそこは危ないから近づくな、って言われてから行ったことなぃ……あれ、ないよね、マスター?」
「俺に聞くな、自分のことだろう」
オスカーとルークの言葉に、アイザックはそうだよな、と首を傾げながら頷くしかない。
「元は協会だからな……過去の詳細を聞くなら【野薔薇】の方が詳しいだろ」
協会は、祓魔師組織【野薔薇】の拠点として利用されることが多い。
「……で、そのツバキさんは?」
「今、ジョシュアと巡回中」
***
ツバキは、ここしばらく夢見が悪い日が続いていた。
何か嫌な夢を見ていたような気がするのだが、起きた時にはまったく覚えていない。
涙で頬が濡れている時さえあり、休息しても疲労が抜けない日々を過ごしていた。
夢の内容なんて何一つとして思い出せないのに、どうしようもない焦燥感だけが残されていて、それが何日も続けばさすがに精神的に疲弊する。
このまま悪夢が続くようなら、任務に支障をきたす前に一度【野薔薇】の医務室に行こうとは思っていた。
「……おい、おまえ、顔色最悪だぞ」
共に巡回していたジョシュアにまでそう言われてしまう始末で、ツバキ自身も不調を自覚しているがゆえに深く重いため息を吐いた。
「…………なぁ、おまえ、ここ最近でなにか違和感覚えたことないか?」
ウィスティリアの町の住民と関わる中で、ツバキは些細な違和感に付きまとわれていた。
例えば、食料や日用品の買い出しの時、必要な装備の媒介や調合の材料などを購入する時、何故か二人分のおまけを渡されたり、「いつものだろ」と言われて身に覚えのない代物を手渡されたり。そして極めつけは、それに対して当たり前のように受け取ろうとする自分がいることに、ツバキ自身が戸惑いを隠せないでいた。
ツバキが「一人分でいい」「頼んでいない」と指摘すれば、住民たちも「あれ?」と首を傾げ「間違えた」と言って、どうしてそんなことをしたのだろうかと不思議そうにしていた。
「は……? 違和感? 別にねぇけど」
あっけらかんと答えるジョシュアに内心で落胆しつつ、ツバキは頭痛を堪えるように指先でこめかみを揉む。
ウィスティリアの町は平和だ、心配して不安になるような、不穏な事件も騒動も何も起きてはいない。
「おい、疲れてんなら休めよ……後は、俺が見回りしておいてやるから」
それなのに、拭いきれないこの焦燥感は何なのだろう。
「……そうさせてもらう」
ここは素直にジョシュアの言葉に甘えさせてもらうことにし、ツバキは巡回を取りやめ帰路に着くことにした。
しかし、帰って寝てもおそらく心身ともに休まらない。
オスカーの経営するBARカゲロウに行けば、ルークが安眠効果のあるハーブティーとか淹れてくれそう、とも考えたが、それには事情を話さなければならない。
それは自分の弱味を晒すようで、なんだか不甲斐ないのと居た堪れないのとで、他者を頼ることに踏み切れず、ツバキはため息を吐く。
さてどうしたものか、とぐるぐる思考を巡らせながら、滞在時に借りている町の宿を目指していたはずの足は、気が付いたら町はずれの森の入口で佇んでいた。
まただ、とツバキはうんざりしたように苦々し気に呟く。
また、無意識のうちにここに辿り着いていた。
「なんなんだよ……」
この先に何があるというのか。
ツバキの知る限り、森の奥には、この先には、廃墟の協会しかない。
数百年だか、数十年だったか忘れたが、とっくに寂れて朽ちて廃墟となった協会しかない。
そのはずだ、なのにどうしてこんなに胸の奥がざわつくのだろう。
「――よぉ、奇遇だな」
ふいに背後から声を掛けられ、ツバキはビクリと肩を跳ね上げた。
振り返れば、そこにいたのはアイザックだった。
「アイザックさん……こんな所で何してんですか」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
アイザックはどこか不機嫌そうに、暗い森の奥を睨みつけるようにして見据えていた。
「……別に。帰ろうと思って」
「どこに?」
「……町の、宿に」
「ここは町の外れだぞ」
「……わかってます」
そんなことはツバキ自身よく分かっている。
どうしておのれは、今ここに佇んでいるのか。
アイザックもまた、どうしてこんな所に足を運んでいるのか。
ツバキは、数日前共に行動して崩落に巻き込まれたアイザックに、ぽつりと問いかけた。
「……あの夜、俺たち何でこの先に辿り着いたんでしたっけ」
「あのお転婆が、町のどこにもいねぇから、あとは町の外れのここしかねぇ、ってなったんだろうよ」
ツバキの問いに、アイザックは静かに答えてくれる。
「彼女は……目を覚ましましたか」
「いや、まだ寝てる。……おかげで、オスカーにしつこく問い詰められて、うんざりしてんだ」
どうしてオリビアがこんな所にわざわざ足を運んだのか。
「おまえ、何か心当たりはあるか?」
「ありませんよ……」
あるわけがない。
そもそもツバキは、それほどオリビアと面識があるわけではない。
ツバキの返答にアイザックも期待はしていなかったようで、そうだよな、と呟く。
「……この先、いつから廃墟なんだ」
「いや、俺も詳しくは……数百年か数十年前から、誰も住んでいないって……」
なんて曖昧すぎる情報なのだろう、と口にしながらツバキは思った。
「必要なら調べますが……」
「いや、いい。もう一度見てきた方が早い」
気怠げにそう呟いて森の奥に足を踏み入れようとしたアイザックを、その時何故かツバキは引き止めなければならないと強く思った。
「えっ、まさか今から行くつもりですか?」
「だったら何だ」
「いえ……崩落現場には、行かない、ほうが……」
振り返ったアイザックが、戸惑い視線を泳がせるツバキを見据えて低く問う。
「何故だ」
「また、崩落が起きないとも、限らないし……」
「外から見てくるだけだ。中には入らない」
アイザックの言葉に、ツバキは胸元を掻きむしるように握り締めて、頭痛を堪えるように息を吐き出す。
「なんだか、行ってはいけない、気がして……」
「……それは、おまえの言葉か?」
静かに響いたアイザックの声に、ツバキはいつの間にか俯いていた顔を上げた。
「えっ……?」
目を瞬かせたツバキに、アイザックは眉間に皺を寄せて忌々し気に顔を歪めた。
「頭が痛ぇ……やめだ、今夜は帰る。おまえも来い、俺の代わりにオスカーの対応しろ」
気が変わったのか、唐突に町の方へ戻って行くアイザックの背中を見て、何故かほっとしている自身に気づいたツバキは動揺する。
何か今、何かおかしな感じがした。
何かまるで、おのれの意思に関係なく、言葉を口にさせられたような。
何か言葉にし難い、そんな違和感が。
「……おい、置いて行くぞ」
さっさとついて来い、とアイザックに促され、思考に沈んでいたツバキは我に返る。
早鐘を打つ鼓動を宥めながらツバキは森に背を向け、アイザックの後ろ姿を追いかけてBARカゲロウに向かったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます