災厄の神父と陽炎の吸血鬼
宮下ユウヤ
第1話:災厄の神父
吸血鬼に、大事な家族と生まれ故郷を奪われたのが十五年前。
命の恩人であり、育ての親でもあり、また吸血鬼狩人として生きる術を教えてくれた師匠でもあった大事な人を奪われたのが、十年前。
協会に属し、祓魔師として同じ組織に属す大事な仲間や部下をすべて奪われたのが、五年前。
その後、組織を抜け、人と接するのを避けるべく、当てのないただひたすら逃げるだけの放浪の旅に出て五年、自分が訪れた村や街がすべて消されている事実に気が付いたのが一年前。
それから、逃げるのをやめ、命を懸けた迎撃および道連れにすべく、協会の伝手により与えられた、人里から離れた深い森の奥にある寂びれた協会を自らの終焉の地に定め、現在に至る。
もうどこにも属せない、どこにも帰れない、どこにも行かない。
もう誰も巻き込まない、誰も犠牲にさせない、誰にも関わらない、誰にも頼らない、誰にも助けを求めない。
ただ自分一人で、全てに決着をつけなければならない。
どれだけ嫌でも、全てを投げ出したくなるほど苦しくても、心が砕けそうになるほど辛くても、深い悲しみに押しつぶされそうになっても、息ができなくなりそうなくらい絶望していても、それはもはや呪いのように、死者より託された無数の「生きろ」という言葉が男を生かす。
白銀の髪と薄氷の瞳を持つ、死が付きまとう男の歩いた道の後ろには、屍の山が積みあがる。
これは、災いを招く、災厄の神父と祓魔師の間で囁かれていた、男の物語。
***
「――神父」
静かな空間に響いた淡々とした声に、祈りを終えたユリウスは、閉じていた目を開いた。
立ち上がり、声の主を探して教会内を見渡すと、ステンドガラスで彩られた窓を背に佇む少年がいた。少年の肩には小さな蝙蝠がとまっている。
「ツバキくん。……そちらの蝙蝠くんはお友達ですか?」
珍しい生き物を見るような目で尋ねるユリウスに、ツバキがキッパリ断言する。
「まぁ、そんなもんです」
その言葉に、肩にとまっていた蝙蝠が、まるで抗議するかのように、猛烈な勢いでツバキの頭を翼でつつき始めた。
その様子を眺めて、ユリウスは首をかしげながら呟く。
「違うと、言っているように私には見えるのですが」
「照れ隠しですよ」
堂々と言い放つツバキに、蝙蝠は威嚇するように翼をばたつかせ、怒ったように超音波のような声で一声鋭く鳴くと、翼を羽ばたかせて飛び去っていった。
ユリウスはそれを見送りながら、ポツリと呟く。
「ツバキくん。ふられましたね」
「ただのツンデレですよ。ところで、神父……その手の傷、どうしたんすか」
長袖で隠すように巻かれたユリウスの左手の包帯を目敏く見つけたツバキは、気だるげな表情から一変、瞳に警戒を宿らせながら問いかける。
ツバキの言葉に、ユリウスは一瞬動きを止め、それからごまかすように左手を後ろに隠して微笑んだ。
「……実は、料理をしていた時にちょっと」
「ごまかさないでください」
「……ただのかすり傷ですから」
「誰に噛まれたんすか」
「……」
口調を強めて断定するように問うツバキに、ユリウスは困ったような表情をする。
包帯の下はツバキの言うとおり、かすり傷なんかではない。牙による二つの噛み痕であった。
「俺一応、半分吸血鬼ですから、匂いには敏感ですよ。神父に、妙な匂いが混ざってます。……ハッキリとはわかりませんけど」
知っているような、知らないような、曖昧な感覚に、ツバキは自分自身にいらだちを覚えて舌打ちする。
「……大丈夫ですよ。もう、噛まれるような失態はしませんから」
だから、心配することなど何もありませんよ、とでもいうように微笑むユリウスに、ツバキは頷くことができない。
ユリウスは確かに強いし、祓魔師としての実力は、協会の奴らよりも上と言っても過言ではない。いや実際、協会運営の祓魔師組織【野薔薇】に所属していた時は、【白薔薇の門】の幹部を務めていたほどの実力を持っている。
正直、半吸血鬼でありながら、【白薔薇の門】に所属している現役祓魔師でもある、ツバキも勝てる気はしない。
そんな強さを持ち合わせているユリウスが、そんじょそこらの低級吸血鬼に噛まれるような失態をするわけがないのだ。なら、考えられるのは、相手がそれほど上級だったか、相手がユリウスに〝敵意″を持っていなかったか、のどちらかだ。
「神父……最近ちゃんと寝れてます? 大丈夫ですか?」
「はい?」
色のついたガラスの眼鏡で隠れてはいるが、出逢った時からこれまで、一度も消えたところを見たことがない、目の下に残る濃い隈をそっとなぞる。もはやアイメイクと言われても頷いてしまいそうなくらい馴染んでいることも踏まえて、見慣れてしまったそれに、ツバキはそっとため息をつく。ほんの少しの物音ですら目を覚ますほど眠りが浅く、実際この人ほぼ寝てないんだろなと、ツバキは思っている。
ユリウスは、敵意や殺意、悪意といった己を害する類のモノの気配に、とても敏感である。それは、祓魔師には必須の感覚ではあるが、今問題なのはそれ以外の感情に対する反応だ。
ユリウスは、敵意に対しては無意識のレベル、もはや反射で迎撃できるほど鋭く敏感だが、それ以外の感情には、例えば好意とか、無邪気なものにはまったく反応しない、ひどく鈍感なのである。
いや違う、反応しないのではない、反応できないのだ。
そうなった原因は、ユリウスの経歴にある。
白銀の髪と薄氷の瞳に、高貴で繊細な美しさを併せ持ち、レアブラッドの特異体質。
十五年前に家族を失い、故郷を失い、十年前に命の恩人である師匠を失い、五年前に部下や仲間を失い、その後の五年間で、旅先で出会った人間をすべてを失った。
長年執拗に彼をつけ狙う、彼の首筋に目印を刻んだ、たった一人の吸血鬼の手によって。
それでも復讐や憎悪に身を焦がされることなく、ただ人々を守るために祓魔師として戦う彼の姿は、洗練され研ぎ澄まされた鋭利な刃物のように美しい。
けれども、神父として、彼が微笑みを浮かべ人々に優しく接する姿が、時々、ツバキには虚無に見えることがある。
そう見えるのはきっと、彼の心がいつ壊れてもおかしくない状態だからだと、ツバキは思っている。
それほど、彼の心は擦り減っていて、そして悲しいくらい、その事実に本人が気がついていないことを、傍で見てきたツバキは知っている。
それがツバキには、とても心配であった。
誰でもいい、仮にも神さまってやつが本当にいるのなら、どうかこの人を救ってほしい。
それが、八年傍にい続けることしかできない、ツバキの心からの願いだ。
五年前の悪夢の唯一の生き残りであるツバキにはできない、できなかった。
どれだけ守りたくても守れない、足手まといどころか、守られてしまう始末だった。
襲ってくる相手がみな、必ずしも悪意を持っているわけではない。子どものように無邪気に狂気にはしるやつだっている。もし今後、そういう敵が現れた時、この人は対処できないのではないか。
神父が西の地ヴァイスの管轄にあるこの教会を臨終の地に定め、生活していくうえで必要なモノは基本的にツバキが麓の町ウィスティリアで調達し、神父自身は極力町には近づかないようにしているとはいえ、今後何が起こるかはわからない。
現に今、人里離れた場所であるというのに、神父は怪我を負った。
「神父は、もっと警戒心を持ったほうがいいです」
「警戒心……持っているつもりですが?」
いやいや嘘だろ。日頃のあんたを見てればわかる。敵と対峙している時以外のあんたは、無防備すぎる。この人は本当に、オンとオフの時の差が極端すぎるのだ。
眼鏡をかけている時はオフ、誰にでも優しい神父の顔。
眼鏡をはずしている時、つまり戦闘時はオン、人間に害を及ぼす敵には容赦しない祓魔師の顔。
神父がかけている色のついたガラスの眼鏡は、視力を矯正するためのものではないので、度は入っていない。ただの、意識を切り替えるためのスイッチのようなものだ。
「俺に対して、警戒心は持ってますか?」
「ツバキくんに? なぜですか?」
あぁ……だから、それだよ。あんたは人に気を許し過ぎなんだよ。そんなに無防備に近づかれると――
ツバキは、手を伸ばしてユリウスの細い顎に指をかけると、親指の腹で下唇をそっとなぞった。自分に向けられた薄氷の瞳をまっすぐ見つめて囁く。
「俺に対しても、警戒心持ったほうがいいですよ」
ツバキは、ユリウスの色のついたガラスの眼鏡をヒョイと取り上げた。
状況が飲み込めないのか、瞠目したユリウスの瞳がキョトンとツバキを見返す。
「どうしてですか?」
もし今、ツバキが悪意を抱いてユリウスの眼鏡を取り上げようとしたならば、ユリウスはきっと避けただろう。
しかし今、ユリウスはツバキが触れても逃げなかったし、眼鏡を取ろうとしても避けなかったし、取られても取り返そうという動作すらしない。
相手が敵意も殺意も悪意も何も抱いていない場合、ユリウスは避けたり、逃げたり、抵抗したりといった回避行動をしない、否、摩耗した心が、反応できない。
今のユリウスは、無防備にただ流し、受け入れてしまうのだ。
「神父。――俺だって、半分吸血鬼です」
ツバキは取った眼鏡を懐にしまうと、人外ならではの素早い動作で、神父の首元に手を伸ばして詰襟の下のシャツの襟を掴んで開くと、露わになった白い首筋に己の牙を近づけた。
「あんたの血が欲しくなって――突然、襲うかもしれないっすよ」
突き飛ばされでもしたら、この人にもちょっとは危機感があると思えたのに、敵意も悪意も抱いていないツバキの行動に、やはりユリウスは微動だにしない。
ここまでしても全然反応がないというのも、逆に悲しくなってきたが。
警告の意味も込めて、このまま吸血してやろうかとツバキが本気で思った時、小さな笑い声が空気を震わせた。
それから優しい声が、ツバキの耳に届いた。
「ツバキくんは、そんなことしませんよ」
「――は?」
思わず見上げると、微笑みを浮かべたユリウスの瞳と目が合った。
「心配してくださったのですね。ありがとうございます」
「……いや、俺、今神父から血もらおうとしたんすけど」
「ツバキくんは、そんなことしませんよ」
先ほどと同じ言葉を、もう一度ユリウスは言う。
根拠もないのにキッパリと断言されたのが、無条件に信頼されているようで気まずくもあり、くすぐったくもある。
若干いじけたような口調になって、ツバキは言葉を返す。
「するかもしれませんよ?」
「現に今、されていませんし」
「それは神父が、…………いえ、もういいです。わかりました」
ニッコリと微笑みで返されて、反論しようとしたツバキだが、なんだかこのまま言い募っても重要なことが伝わらないような気がして諦めた。
今後、何かあってからじゃ遅いんですよ――と内心で毒づく。
まさか、神父の身にその“何か”がすぐに訪れることになろうとは、さすがにツバキも想像できなかったが。
***
西の地ヴァイスにある町ウィスティリアは、住民たちの同意の上、人間と吸血鬼が共存して暮らしている唯一の土地。
その町にある、BARカゲロウは、人間と共存する吸血鬼一族――陽炎一族が経営する、協会の管理下で合法的に血を提供する吸血鬼のための店である。
店は、ウィスティリアの町に出入りする人物を監視しやすい場所にあり、昼間は休み、営業時間は、日没から夜明けまで。
準備中の看板がかけられたBARカゲロウにて、グラスを傾けながらアイザックは、カウンターの内側にいるこの店のマスターであるオスカーと対面していた。
「寝ぼけて一般市民を吸血したかもだって!?」
「…………たぶん」
「ちょっ、本気で言ってる!? 冗談だろ!?」
冗談であってくれ、と訴えるオスカーの言葉に、アイザック頷くことができない。
正直、アイザック自身も嘘だと思いたい所だが、残念ながら確信がある。
気まぐれに町に出たはいいが、退屈のあまりいつもと違うところに足を運んだ結果、迷い込んだ町はずれの森で、ちょうどいい静けさにアイザックは転寝をした。
その時に、微睡の中にいたアイザックは何者かに、自分を起こそうとしたのか肩を揺すられた記憶がおぼろげながらあった。
睡眠の邪魔をされたのを、やや鬱陶しく思ったような気もするが、それくらいで人を襲ったりはしない。ハッキリしないが、何か抗い難い誘惑に襲われたような気がして、喉の渇きを刺激され、無意識に手を伸ばして掴んだ何かに牙を立てたような……その後、強烈な頭痛を感じて意識が完全に落ち、目が覚めたのでここに戻ってきた。
目覚めた直後、なんだ夢かと思ったのは一瞬で、かすかに口内に残っていた甘美な血の味が、夢ではないことを裏付けた。
「……アウトだろ、それは」
「…………すまん」
「すまんじゃすまんわ」
仮にも王族付きの騎士長だった純血種のおまえが、そんなへまをするなんて、とオスカーが頭を抱える。
静かな怒りがオスカーから発せられ、アイザックは非常に気まずくなり、居心地の悪さを覚えた。けれどもオスカーはすぐに怒りを収め、やや呆れたようなため息をついた。
「……まぁアイザは、ここんとこ疑似血しかとってないしな……俺らより純血種のおまえのが生き血への欲求が強いってのは知ってるから、仕方ないと言ってやりたいとこだけど」
確かにアイザックは、ここ何百年も人の生き血を得ていない。別に、生きている人間から吸血しなくても、輸血パックや、疑似血(ブラッドオレンジジュースやトマトジュース、赤ワインなど)などを生き血の代わりとして摂取していれば餓死することはないのだが。それでも、たまには新鮮な生き血が欲しくなるときもある。この欲求は人間から転生した吸血鬼よりも、純血種の方が強い傾向にある。
ただ、人から直接吸血行為をするには、いろいろと気を付けなければならない点があるのだ。まず、人一人からはおよそ一口分くらいしか吸血してはいけない。あまりに多量に吸血してしまうと、相手を吸血鬼化させてしまったり、最悪相手が命を落とす危険がある。簡単なように思えるが、半吸血鬼や吸血行為に慣れていない吸血鬼がこれを行うと、自制ができずに、最悪の事態を起こすことが多いのである。そんなリスクを犯してまで生き血を求めているわけではないので、大半の吸血鬼は輸血パックや疑似血を日々の糧としている。またBARカゲロウを訪れて、渇きを満たす者も多い。
しかし、中には人間の生き血に味を占めてしまい、疑似血では渇きを満たせなくなった輩もいる。人間を食料と見なす同胞もいれば、人の血を求めるあまり我をなくし、人を襲い始める吸血鬼が増えているのも事実である。そんな同胞たちを陽炎一族は<堕ちた吸血鬼>として狩る。人との共存を望む吸血鬼集団である陽炎一族は、人に害をなす同胞を狩ることで、協会に属す祓魔師組織【野薔薇】と協力関係にあり、一族の安息の場を得ているのが現状だ。
「相手が死亡、または変化した可能性は?」
「……ない、と思う」
「曖昧だな、ホント」
寝ぼけていたのだから仕方がない。けれども、肝心なところはうろ覚えだというのに、嫌にハッキリと覚えていることが一つだけあった。
「…………味が、似てた」
「は?」
そう、あの血の味が忘れられない。
「……ルークのと」
「それって、まさか、レア? ……いやいや、ありえない。あいつの血液型は稀少だぞ。そんなホイホイいるわけない」
レアというのは通称であり、正式には“貴重な
「たっだいま~! あれ? どしたの二人とも? 何かあった?」
噂をすればなんとやら、バーの扉が開いて、レアの血を持つ人間のルークが両手に荷物を抱えて戻ってきた。
捨て子だったルークは、特異体質故に吸血鬼に襲われかけたところを陽炎一族に救われ、そのまま拾われる形で一緒に育った、人間ではあるが、今では陽炎一族は彼にとって家族のような存在となりつつある。
「ルーク、おかえり。いや、何かあったというか、アイザがやらかしたというか」
「なになに? アイザ何かしたの?」
ルークは、カウンターにオスカーに頼まれて仕入れてきた荷物を置いた。
近づいたルークから感じた気配に、オスカーとアイザックは同時に眉をひそめた。
「なんだ、これ……ルークおまえ、今日どこ行いった?」
「えっ? 何で?」
「いや、なんだろ、これ……清らか~な、神聖な空気の残り香というか……」
「えっ……何それ? なんかわかんないけど、やばい感じのやつ? 俺いないほうがいい?」
「…………おい、ルーク。おまえ、どこ行ってたんだ?」
一方、アイザックはオスカーとは違うひっかかりを覚えていた。
レアブラッドであるルークの独特な血の香りに混ざって感じられるのは、ルークとは別の香りだった。オスカーの言う通り、清涼感のある澄んだ空気、いや残り香とでもいうべきか。
そしてアイザックは、その気配にうっすら覚えがあったのだ。
確実とは言えないが、そのまま見過ごせる範囲でもない。
「えっと……昼間は、マスターに頼まれてた商店街で買い物と、あと最近気になってた、町はずれの教会にちょっと行ってみた」
「あーそういえば、そんな連絡あったな。どこの物好きか知らないけど、協会に住み始めたって。まぁ俺らには縁遠いトコだなー」
「いや~優しい神父さんだったよ~。俺、世間話してきた!」
「何してんのおまえは……」
呆れたオスカーの苦笑する声とルークの明るい声を聞き流しながら、アイザックは一人呟いた。
「教会、か……」
そこへ行けば、もしかしたら、見つけられるかもしれない。
あの、忘れられない血の味の持ち主を――
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