第3章:都合のいい不安症

第1話 意味深な躊躇い

 授業終了10分前。担任の沙織が早めに授業を切り上げて教卓からプリントの束を取り出すや、一部の生徒たちは期待の眼差しを沙織に向ける。


「じゃあ残りの時間で来週の野外授業のプリント配るからね。ここには当日の集合時間と持ち物が書いてあるから、きちんとお父さんお母さんに見せて」

「うえぇぇぇい! 来週は野外授業だああああぁぁ!」

「ねえねえ一緒のところ回ろ! 他の子も一緒に誘ってさーっ」

「ふおおおおおおうんこちんこおっぱいちんこうんこちんこおっぱいちんちん汁!」

「25歳独身女教師いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

「俺は隣のクラスの涼音ちゃんが好きだああああああ!」

「うわああああああああああああああああ沙織いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいい!!」


 沙織が告げるや、男子たちは水を得た魚さながらに、興奮と熱気に見舞われた。

 あまりにうるさい喚き声に、沙織は「んんっ」と咳払いする。


「そこ! 騒いでるけど、これは美術の授業だからね。あくまで自然の中の絵を描くために行くの。あまり羽目を外し過ぎないように!」

「ふえーい」

「実際遠足みたいなもんじゃーん」

「沙織……」


 注意されると男子たちは気のない返事をした。

 きちんと返事をしただけでも良しとすると、沙織は仕切り直す。


「いいみんな。当日は朝から出発だから、くれぐれも遅刻はしないようにね。それじゃあ今からプリント配るから、順番に後ろに回して」


 先頭の席にプリントの束を渡すと順に後ろへと渡って行った。沙織は全体に行き渡った頃を見計らうと、必要事項を告げようとプリントに目を落とす。


「それじゃあ説明するから、みんなも一緒にプリント見てね」

「せんせー、まだプリント来てませーん」


 と、プリントを読み上げようとした直後、後方からそんな声が上がる。

 声のした列を見ると、配布作業はとある席の途中で停滞していた。どうやら前の席の女子が、後ろの男子にプリントを渡していないようだ。

 沙織は停滞の原因である女子を見ると声をかける。


「萌ちゃん、プリント回さないと後ろの人が困ってるでしょ? 早く佐沼君に渡して」

「え。あ、いや……」


 沙織が促すと、髪をツインテールにした萌が困惑の声を漏らす。


「? どうしたの、なにかあった?」


 萌と佐沼の間で醸し出される奇妙な空気に、沙織はそっと近づいてみる。

 すると萌はなにを慌てたのか、急いで首を振った。


「なな、なんでもないです!」

「そう? それじゃあ先に説明しちゃうね。まず一番上から――」


 萌の返事を聞くと、沙織は本当に説明を始めた。

 配らざるを得なくなると萌はため息をつき、後ろを振り返る。眼前にはひょろりとした、おかっぱ頭のクラスメイトの男子、佐沼がいた。

 萌はあからさまに嫌な顔をすると、口をへの字に曲げ、まず自分の分のプリントを机に置く。佐沼は配られるであろうプリントを貰おうと手を出した。

 刹那、プリントは佐沼の手ではなく、机の上に放られる。

 すると萌は、すぐにくるりと前に向き直った。

 佐沼はため息を吐くも特に文句も言わず、無言でプリントを後ろに回す。


「へぇ……臭わせてくるじゃない?」


 そんな二人の様子を、当然のように席を立って至近距離から見ていた真名は、佐沼と不機嫌そうにプリントを睨む萌に、低い声で呟いて格好つけた。

 特に真名は萌の方を見やった。その全身からは、憎悪にも似たどす黒い悪意の色彩が溢れ出し、どこか悲しみを帯びた感情が漂ってくる。

 そしてどうしたことか、席を立っている真名を咎める者は一人もいない。

 担任の沙織でさえ、まるで真名が視界に入っていないように説明を続けた。



 事件は給食の配膳時にも起こった。それは萌がお盆を持って列に並んでいたとき。

 前の人が捌け、友達と楽しくお喋りしていた萌は前に出る。だが今まさに食器に給食を盛ろうとする相手を見るや、笑顔はみるみる青に染まった。


「ちょっと待って!」


 激しい口調に佐沼はぴたりと動きを止める。そしてじろりと萌を見やった。

 萌は佐沼に掌を向けると、敵意に満ちた声音で告げる。


「自分でやるからいい。それ貸して」

「え? いや、もう盛っちゃったんだけど……」

「触った食器は自分で使えばいいじゃん。いいから貸してって!」


 萌は半ギレで言うと佐沼からお玉をふんだくり、姑息にも佐沼の握っていた場所を避けて持つと、自分で食器に給食をよそった。

 それからお玉を佐沼に返さず、鍋の中に放って踵を返す。


「……」


 佐沼は無言でお玉を持つと、平常を装ったまま次の人に配膳した。



 悲劇はまだ終わらない。次はみんなに給食が行き渡ったあと、配膳係が席に戻って来るまで、生徒たちが席に着いて待っていたときである。


「あ、席の間に隙間空いてんじゃん!」


 それに気づいたのは配膳を終え、席に戻る途中の男子だった。

 生徒たちが四人グループでお互いに向き合って机をくっつける中、萌だけ前の机との間に隙間を空けているのを見つけて指摘する。

 言わずもがな、萌が向かい合う前方では、佐沼が席に着いている。


「あ……」

「ったくしょうがねーなぁ。俺がくっつけてやるよ」


 親切心から男子が萌の机に手をかけ、佐沼の机とくっつけようと動かす。


「ちょっ!? なにすんのやめてよ! 勝手なことしないでッ!」


 佐沼の机と自分の席がくっついた瞬間、萌は大袈裟に大声を上げると、ガガッと勢いよく机を動かし、佐沼の机と更に距離を開けて一層溝を深めた。


「な!? 親切でやってやったのにそんな言い方ないだろ!」

「それが迷惑だって言ってんの! 余計なことしないでよ、あっち行って!」

「はぁ!? んだよ、わっけわかんねぇ……っ」


 男子は悪態をつくと、萌にうんざりして自分の席に戻った。萌はウェットティッシュを取り出すと、佐沼の席とくっついた机の端を懸命に拭く。

 そしてこのときも、やはり佐沼はノーリアクションでその様子を見ていた。


「ガツガツガツガツ! ハグ、ハグ! ンッモオオォォォオオオオ~~!」


 離れたところでフライングした真名が給食を口いっぱいに頬張り、変な音を立てながら、興味津々といった様子で二人に視線を注いでいるとも知らずに。

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