第7話 命より重いもの
「結局永井君、一言も謝らずに先に帰っちゃったね」
「悪いことして謝らないなんて、ほんと信じらんない!」
「野々花ちゃんの方が傷ついてるってわかったのに、自分の方が辛いなんて、酷い言いがかりだよね。往生際悪すぎ。ほんとサイテー」
帰りのHRが終わり、生徒たちはランドセルを背負って教室を出て行く中、そんな会話が聞こえてくる。そこには野々花たちグループの姿もあった。
一人、真名だけなにも荷物を持っていないことを、誰も指摘することなく。
「真名ちゃん、ちょっといい?」
「にゅ?」
名前を呼ばれ、真名は振り返る。
そこには教室から半身を出した沙織が、哀愁の漂う表情で立っていた。
「いやーん先生に呼ばれちゃった~ん。みんな先帰ってて~!」
「うん、わかった。バイバイ真名ちゃん」
「また明日ねー」
友達と別れの挨拶をすると、真名は早足に沙織へ近づく。
「先生の呼び出し個人レッスンいやぁ~んっ。はぁ~んでもダメダメェ! 真名ちゃんの体はみんなで使っていただきとうございますぅ」
「真名ちゃん。さっきの――人の気持ちを同調させるのは、もうやめてね?」
「はえぇ!? なにかと思ったらそんな呼び出し!? なんでなんで? 心が通えばわかることもあるのに!」
得意分野を禁じられ、真名は大げさにリアクションした。だが沙織は首を振る。
「確かに心が通じ合うことで理解が深まるかもしれない。でもね、それだと優劣がついちゃうでしょ? 特に今回だと、永井君がとても可哀想だし」
「あ、それは大丈夫! 永井君ももうわかってくれたから!」
自信たっぷりに告げる真名。その根拠のない自信に沙織は眉を顰める。
「……なんでそう言い切れるの?」
「だって私、人の気持ちが見えるもん! ほら、こんなふうに!」
真名はステッキを掲げると得意げに振るってみせる。するとステッキの軌道をなぞるように空間が色づき、様々な感情が色となって空気中に視覚化した。
真名の笑顔は眩しかった。どこまでも純真無垢で罪悪感もなく、ただただ楽しげな気持ちに溢れている。
「それでさっき永井君の方も確認したけど、十分理解したみたいだよ。やっぱりみんな、実感しないとわからないこと多いみたいで大変だよねー」
「……それでも、もうしちゃダメ。特に今回みたいなことは絶対に。だってあれだと、命は大事じゃないって言ってるのと同じことになっちゃうでしょ?」
「うん? 違うよ先生。優先順位ってね、状況によって変わるんだよ。命が大事なんじゃなくて、命が一番のときもあるってだけ」
「……っ!?」
とんでもない真名の意見に、沙織はショックを受けた。
沙織は真名の歪んだ認識を目の当たりにすると、急いで言葉を紡ぐ。
「違うわ真名ちゃん! 人である以上、みんなちゃんと道徳心を持たないといけないの! いい? 人はね、命を大事に思うものなの。命が大事じゃないと思うようになったら、その人はもう人間じゃないんだよ!?」
「じゃあ、本気でそう思ってた野々花ちゃんは、人間じゃないの?」
「――っ!?」
失言に気づき沙織は咄嗟に口を塞ぐ。だが一度口から出た言葉は戻らない。
真名は困ったように首を傾げると、じっと沙織の目を見つめた。
「先生はいつまで強がりを言うの? 先生だって、自分のおばあちゃんが死んじゃったときよりも、野々花ちゃんのストラップが壊れたときの方が――」
「それ以上はやめて!」
腹の底から吐き出された怒号が廊下に反響する。
沙織は真名の肩を強く握り締めた。図星を衝かれ、思わず手に力が入ったのだ。
まだ廊下に残っていた生徒たちは、何事かと二人の方をちらちらと窺う。
「お願い、真名ちゃん……それ以上はやめてっ!」
しかし沙織は周囲の目も憚らず、その場に崩れて顔を覆う。
やがて沙織が静かにしゃくり上げると、真名は朗らかな笑みを浮かべた。
「先生、大丈夫。真名ちゃんはわかってるよ。でも、みんながみんな同じに思ってるわけじゃないの。人にはそれぞれ一番に大切なものがあって、価値観は人それぞれなんだよ」
真名の言葉に沙織は納得しかけた。しかし自分の意地とプライドが――自分の中の崩壊しかけたアイデンティティがそれを拒む。
「いえ、ダメよ……。それだとみんなの認知が歪んで――」
「そうやって先生は命を一番にして、野々花ちゃんの気持ちも否定して、自分も裏切るの?」
呼吸が止まった。決定的な言葉に衝撃を受けて、沙織は硬直する。
「先生。なにかを大切にする気持ちは心から来るんだよ。その心を大切にしない人が、どうして命のことを大切だなんて言えるの? 確かに先生の言う通り、命より重いものはないかもしれない。――でもね」
真名は沙織の目をじっと見つめると、決定的な一言を言う。
「命よりも重いと感じる心は、誰の中にもあるんだよ」
自分の胸の内の汚れた部分をすべて見透かされたような錯覚に陥ると、途轍もない恥辱と屈辱が沙織を襲った。それを否定しようと沙織は急いで真名に手を伸ばす。
「ちっ――違う! 違うの真名ちゃん、待って!」
だが丁度真名が踵を返してしまい、握った拳は空しく空を切った。
「じゃあ私もう帰らないと。また明日ね先生!」
真名は満面の笑みで元気にそう言うと、沙織に手を振って廊下を駆ける。
沙織は小柄な背中が小さくなっていくのを見つめたまま、自分の内で変わりつつある人の在り方や命への価値観に、恐怖を覚えて独り震えた。
そして永井を擁護できなかったことと、野々花の悲しみに共感できなかったことに心咎めを感じながら、静かに落涙した。
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