第6話 不条理な現実

「え? ……まあ、そうすれば、あいつみたいに人のペットを平気で踏むような奴も出てこないと思うけど……」


 忌々しそうに永井は答えた。それが悪夢を呼ぶことになるとも知らずに。


「なら任せて! 誰かの気持ちがダイレクトにわかるようにするくらい、真名ちゃんには朝飯前だよ。例えばこれが野々花ちゃんの想い!」


 無邪気に言いながら真名は再びステッキを振るう。すると今なお泣き崩れている野々花から溢れんばかりの色彩が湧き出し、頭上に漂った。

 闇のようにどす黒く濁り、ドロドロとした空気を纏う思念が。

 瞬間、思念は爆ぜて、先程ハムスターを模ったときと同様なにかを形作る。


『ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァッ!!』


 現れたのは、顔面のねじくれた、世にも恐ろしい化け物だった。

 五本の馬の蹄の上にはムカデのような胴体が生えており、人間の手が数十本と戦慄く。長髪の頭には大きな口だけがあり、目や耳や鼻は存在しない。

 そんな頭部が三つも生えて後頭部でくっつき、それぞれ三方向を見ている。


「きゃあああああああああああああああああああ!?」


 突然現れた化け物にクラス内は悲鳴と絶叫に包まれた。その悲鳴を合図に化け物たちは子どもたちに飛びかかると、早速生徒が一人餌食になる。

 が、実際に命を奪ったわけではない。化け物は子どもたちに衝突すると先程のハムスターの幻影同様、胸の中に飛び込んで弾けた。

 だが同じなのは原理のみ。

 化け物は口から真っ赤な舌を覗かせると、恐ろしい咆哮を上げながら子どもたちの頭を鷲掴んだり、転んだ子の足を掴んでずるずると引っ張ったり、逃げられないように抱き抱えた子に頭を近づけると、大口を開けて噛みつくような勢いで頭部を無理矢理その胸に押しつけ、最後に爆ぜて消える。

 こんな恐ろしい状況、子どもでなくとも逃げ出すだろう。


「なに、これ……っ!? ――み、みんな逃げてぇ! こっちに、早くっ!」


 地獄のような光景に沙織は絶句するも、すぐに正気に戻ると、急いで子どもたちに避難を煽った。だが悲劇は終わらない。

 化け物が胸の中で爆ぜた瞬間、子どもたちの胸中に重苦しい重圧がかかる。

 それは先程永井の感じていた悲しみよりも何百倍も深く、闇の深淵よりも底知れず、魂を地獄の業火で焼かれるような、耐えがたい精神的苦痛だった。

 そこに怒りや憎しみまでもが綯い交ぜになり、途方もない絶望が込み上げる。


「うわああやだあああぁぁぁッ! なにこれ苦しい!? 助けてぇぇっぇぇッ!」

「胸が潰れる! 死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ! もうやめてやだ! ヤダヤダヤダヤダ!」


 内側から湧き上がるどす黒い感情に、子どもたちは胸が張り裂けるような痛みを覚えて悲鳴を上げた。狂ったように頭を振り乱すと床に転がって泣き叫び、悶絶する。

 耐えられなかった者は、その場に吐き出したり失禁した。中には過呼吸になってゼーヒューと息を荒げ、必死に首を掻き毟る子どももいる。


「ひ、酷い……っ。なんでこんな――」

『キィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 沙織が青ざめて放心状態になっていると、そこに化け物が襲いかかった。


「きゃあああ!」


 無抵抗だった沙織は化け物と衝突する。だが反動がなければダメージもなく、代わりに化け物は胸中で弾け、化け物を模っていた思念が沙織の中に溶けた。

 そして、化け物を形成していた思念と感情の波が、沙織に同調する。


「うっ――ぐあああああああぁぁ!? な、なにこれ!? なんなのこの苦しみ!? いや、いやいやあああああああ! 辛い、苦しい! たす、助けて! 誰かあああぁッ!」


 想像を絶する苦痛に絶叫を上げると、沙織は床でのた打ち回った。手足を痙攣させると全身にびっしりと汗を掻き、床を這いずって誰にともなく救いを求める。

 そして目の前に平然と突っ立っている人物を見つけると、目を見開いた。


「っの、のか……ちゃん……っ」

「ひぐっ……だあっ、らぁ! 私の、が、もっと辛い、って言った、の、にいぃ……っ」


 野々花は何度もしゃくり上げると、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、厭わしそうに沙織を睨みつけた。

 だが今の沙織に、野々花の心情を汲み取れるだけのキャパシティはなかった。全身が野々花のありとあらゆる怒りと悲しみと絶望に犯され、視界が霞む。


「因みに周りにはこの騒ぎを認知できないようにしたから、迷惑の心配はないよ。いや~ん真名ちゃんちょー気が利く! もう天っ才! もド天才ったらありゃしない!」

「ふっ…………ざけんなよオオォォォォォォォォォォォオオオッ!!」


 真名が自画自賛して全身を撫で回していると、苦しげな怒声が響く。

 化け物の影響を受けた永井が肩を震わせていた。今まで感じたこともない圧力と憎悪と傷心にたたらを踏みながらも、憎たらしそうに野々花を睨みつける。


「なんだよ、これ……どうして大事な家族が死んだ俺より、お前の方が辛いんだよぉ!」

「永井君のバカ! まだわかんないの!? たかだかドブネズミ一匹の命と、私の大事なストラップだよ!? どっちの価値が高くて大切かなんてすぐわかるじゃん!」


 ここまで来て、己の気持ちに共感してさえも一向にわかろうとしない永井に、野々花は泣き叫びながら怒鳴りつけた。しかし永井はぶんぶん首を振る。


「違う! 違う違う違う! こんなのは嘘だ! 俺は認めない!」


 徐々に影響が弱まってきたのか、周りの生徒たちも持ち直したようで、一人、また一人と正気を取り戻していく。そんな中、永井は声を張ると真名を指差す。


「お前、そいつと一緒にずるしたんだろ!? じゃなきゃ、こんなこと……っ!」

「他の人にとってはちょっとのことでも、本人にとっては物凄く辛いこともあるんだよ」


 真名は相変わらず笑顔を讃えながら、ステッキを振り回す。


「そして今回の永井君のハムスターが死んで悲しい気持ちと、野々花ちゃんのストラップが壊れて悲しい気持ちでは、永井君と比べて野々花ちゃんの方が、胸が張り裂けそうなくらい壮絶ってだけ。それだけの話だよ?」

「あり得ない! そんな人間いるわけないだろ! こんなの嘘だ!」


 納得できないと駄々を捏ねる永井。これには真名も困窮した。


「えーでも実際そうなってるじゃん? 永井君がどう考えようとこれが現実だし、家族やペットの死が、他と比べて絶対に辛いってことはないんだよ? 今回はハムスターの命よりも、ストラップのうさぎさんの方が、圧倒的に価値があった。はいこの話は終わり」


 ぱんと手を合わすと真名は深々と合唱する。だが永井は認めない。


「一緒にするな! 命と物だぞ!? 一緒なわけがない!」

「心で感じられる辛さの限界は、人によって違うんだよ。そして永井君と比べたら、野々花ちゃんの方が圧倒的に傷ついてる。そう、これは絶対に揺るがない事実なのです!」

「嘘、だ……そんなはずない! だって俺は、本当に辛くて……」

「真名ちゃん、それは違うわ!」


 永井が放心状態になっていると、持ち直した沙織がすかさずフォローした。


「命とストラップよ? どっちが大切かなんて――」

「うーん、そんなこと真名ちゃんに言われても……。じゃあ先生と永井君は、さっきの永井君の気持ちと、今の野々花ちゃんの気持ち、どっちの方が辛かったの? もうそれだけはっきりさせちゃおう」

「「……っ」」


 純粋な問いに、永井と教師は返答できなかった。

 なぜなら家族やペットを失う哀情よりも、野々花の方が自分たちよりも数百倍も重いことを、この身をもって心の底から実感してしまったから。

 ここで嘘をついても、再び真名が先程のハムスターや化け物の幻影のようにステッキを振るって周囲に共感を促せば、すぐに嘘だとバレてしまうだろう。


「なんっ……だよそれ!? 俺の方が辛いのに――どうしてこんな奴が俺より辛い思いをしてんだ! 俺だって大切なのに、こんなどこでも買えるストラップ一個に……っ」


 永井は野々花を睨むが、すぐに俯いて奥歯を噛みしめる。絶望してその場に膝をつくと喘ぎ、だがすぐにばっと顔を上げると、縋るような視線を沙織に送った。


「ねえ、先生はわかってくれるでしょ!? 俺の気持ち! ずっと一緒にいた家族が死んじゃったんだ! 絶対俺の方が辛いよね!?」

「えっ?」


 突然共感を求められ沙織はびくりとする。その視線には救いを求めるものがあり、今にも崩れてしまいそうな危機感があった。

 一般的な見解と理論で言えば、野々花よりも永井の方が痛ましい立場にいることは、誰の目にも一目瞭然だ。なんといっても命が天秤にかけられているのだから。

 だがそれは一般論に過ぎない。

 永井の心と同調し、そのことで大切な祖母が亡くなったときのことを思い出し、同等の悲痛であることを知った沙織は、永井に強く共感する。

 だが悲しいかな、気持ちではこの上なく野々花の方が過酷な立場にあることを、沙織は文字通り、この身をもって知ってしまった。

 それは命を失うよりも、どこにでもあり、いつでも買える、大量生産されているストラップを壊される方が、心に負う傷が深いことを証明している。

 この事実を認めることは人道的にも常識的にも、気持ちの上でも間違っていることを沙織はわかっていた。

 だが、それでも野々花の悲痛の方が、自分と永井よりも何百倍も勝っている。

 その事実のせいで、永井を擁護する言葉が見つからない。

 沙織は永井から目を逸らすと、引き結んだ口をどうにか開いた。


「……ごめんね、永井君……私には、どうしても野々花ちゃんの方が、永井君よりも辛い思いをしてるようにしか感じられないの」

「そん、な……っ」

「ごめんね――ごめんなさい。ごめんなさい……っ!」


 沙織は声を押し殺すと、目頭に涙を滲ませ、両手で顔を覆った。


「うっ……うぅ……うううぅううぅぅぅぅううぅぅぅ!」


 永井は床に突っ伏すると苦しそうに嗚咽を漏らす。それから拳を固く握ると、行き場のない怒りをぶつけように何度も床を殴りつけた。


「なんで……なんでだよぉ!? なんで被害者より加害者の方が傷ついてんだ! どう見たって俺の方が可哀想なはずなのに……」


 そこで言葉を切ると、永井は真名をぎろりと見やる。


「お前、どうしてこんなことすんだ!? あんまりじゃないか!!」

「え? 人の気持ちがわかるようになればいいって言ったの、永井君じゃん?」


 きょとんとしながら真名は答える。

 そしてすべて自分の責任であることを理解した瞬間、永井の心は悲鳴を上げた。


「うああああああああああああああぁぁぁぁ!!」


 大声で泣き叫ぶと、永井はそのまま小さく蹲る。

 そして最後、今にも消え入りそうな声で、ぼそりと呟いた。


「こんなことなら……人の気持ちなんて、知るんじゃなかった……」

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