家族写真

きさらぎ

第1話

子どもを喜ばせることは非常に難しい。なぜなら子供は何をしても不満だからだ。


親を喜ばせるのは非常に簡単である。なぜこんな簡単なことを今までしてこなかったのだろう。


 幼い頃、父が外に女をつくって出ていった。もともと母に暴力をふるうやつで、父に対する愛情なんてものはなかった。家を出ようが関係なかったし、正直な話、あまり父のことは覚えていなかった。だからこれは母に聞かされていた話だ。

そして母は毎回、この話をした後俺にごめんね、と謝罪をする。お父さんに愛想をつかされるお母さんでごめんね。片親にさせてごめんね。こういった意味が込められているんだろうなぁと予想していた。

しかし俺はそんな父ならいらないと思うし、俺を育てるために必死になってくれている母さんを傷つけた父を許せないと思っている。

だからね母さん、母さんが謝ることなんて何一つないんだよ。

 俺はそんな母さんに楽をさせたくて、必死に勉強した。片親なのにうちはそれほど貧乏ではなく、生活に困ったことはない。それでも母さんの自慢になりたくて、恩返しさせたくて、俺らを捨てた父親を見返したくて、ひたすら勉強に打ち込んだ。

 

 そんな中、過去の参考書を見ようと押入れをあさったら、アルバムが出てきた。小さい頃の俺がうつっている。『〇月 庭で』とか『〇月 洗濯物と昼寝』とか、幼児期健忘により消えていた記憶の穴埋めをするような写真がでてきた。全く覚えていないのに、なぜかどこか懐かしく、俺の意識は参考所から記憶の懐古へと向かっていた。

 何ページか進めていくと、あるページで手を止めた。『〇月 お父さんと』。そこには俺を抱える優しそうな男が写っていた。今まで母から聞いた話のみで認識していた想像の男の輪郭を、この時初めてとらえた。それと同時に、想像と違う様子の男に戸惑いがあった。俺の想像では、父はもっと冷たく、写真なんか写る人じゃない。少なくとも、こんなにやさしく、いつくしむように俺のことを抱いたりしない。

 その時、アルバムの後ろのページに挟まれていた写真がひらりと落ちた。慌てて元の場所に戻そうと、それらしきページを開き空いたスペースを探す。見つけるのは思っていたよりも簡単ですぐに分かった。

 少し不自然に空いた隙間の下に、今までのように一言。『〇月 病院で家族写真』。

 俺が生まれたときのことかと写真をよく見ると、入院していたのは俺ではなかった。入院服を着ていたのは、先ほどみた男、俺の父親だ。母が俺を抱え、そんな母の肩を男が抱いている。

 一体どういうことなのだろうか。父親は母や俺を裏切っていたんじゃなかったのか?いやきっと、でていったのはこの後だ。そう思っていた矢先、何の気兼ねなしに写真の裏側を見たところ、その考えは打ち消された。

 「本当にありがとう。幸せに。」

 たった数文字。たった一文。なのに、この文字の羅列を見ていると、これを書いた人の思いが伝わってくる。

 きっと、限られた命の中で、必死にこれを書いたのだろう。あの数文字が、限界だったのだろう。震えた、それでいて力強く書かれた文章がそれを物語っていた。

 

 日が傾いている。俺はどのくらいこうしていたのだろうか。

 玄関からドアの開く音がする。母さんが帰ってきた。

 「ただいまー」

 いつもならおかえり、と声をかけるのに、なぜか声が出ない。のどが凍ったように冷たい。指先が、血が通ってないように、冷たい。

 返事がない俺を不審に思ったのか、母さんが様子を見に来た。

 部屋の入り口からこちらを見たであろう母さんの息をのむ声が聞こえた。今、どんな顔をしているのだろう。うつむく俺から母さんの顔色はうかがえない。

 「あんた…それ…」

 「これ、父さんなんでしょ。」

 自分でも感情のない声でびっくりした。さっきまで凍っていたかのような喉は、なぜかもう冷たくない。

 「父さんはずっと、俺たちを裏切って出ていったって言ったよね。でもこの写真を見る限り、父さんは俺たちを置いて出ていったんじゃなくて、もう死んじゃったんじゃないの?ねえ、母さん。どういうことなの…?」

 顔をあげて母さんを見上げる。母さんはどこか思いつめたような顔をしていた。しかしすぐにふっと眉を下げ困ったように微笑んだ。

 「そうね、出ていったんじゃなくて、置いて逝ったのよ。あの人は。」

 置いていった。出ていったと聞かさせていたのはやはり嘘だったようだ。驚きはしなかった。置いていった。おそらく「いった」とは「逝った」、ということだろう。

 「こっちにおいで。お母さんとお話ししよう。お茶入れるね。」

 リビングに向かう母さんは何か決心したように、その声はどこか力強かった。


 空気が冷たい。沈黙に包まれた冷たい空気のリビングは、今までにないくらい居心地が悪かった。

テーブルにある二つのマグカップからは、入れたばかりの存在を主張するような煙が経っている。それは今の俺の心と対比しているようだった。

 「…お父さんね、ずっと出ていったってお母さん言ってたでしょ。小さい頃からずっと。あなたもそれを信じて、お父さんみたいにはならないっていっぱいいろんなこと頑張ってきたわね。」

 母さんはマグカップに数回、息を吹きかけ静かに口に運ぶ。のどを潤すところを意識もなく見ていた。なぜか自分も飲む気にはなれなかった。

 時計の針はもうすぐ夕飯の時間をさすのに、不思議と俺の腹は空腹を告げなかった。

 「お父さんね、末期のがんだったの。あなたが三歳になるまで生きられないって言われてたわ。お母さんね、それを聞いてすっごく悲しくて、お父さんのほうがつらいのにお母さんわんわん泣いちゃって。」

 眉を下げて、懐かしむように、一言一言大切に発する。

「でもお父さんはそんなお母さんを怒りもせずに、ごめんな、って言って支えてくれてね。お母さんそれでこの人の前では二度と泣かないって決めたわ。」

 また一口、口に運ぶ。最初ほど湯気のなくなったそれに、母さんが息を吹きかけることはなかった。少し下を見ている母さんの目は、ここではないどこか遠くを見ているように感じられた。

 「お父さんは、最低なやつで、ほかに女をつくって出ていった。ってずっと言ってたと思うけれど、本当は全くの逆よ。いつも優しくて、私たちのことを真っ先に考える人だったわ。あなたもそんなお父さんにいつもべったりで、お母さん少し寂しかったくらいよ。」

 おどけたように母さんが俺のほうを見る。記憶にないことなのに、なんだか気恥ずかしくなって初めて母さんから視線をそらした。恥ずかしさを隠すように口に含んだ紅茶は、まだ温かみを帯びていたけど、少しぬるかった。

 「でもお父さん、ある時期から急に体調を崩してね。おかしいと思って病院に行ったのよ。そしたらすい臓がん。暗黒の臓器とはよく言ったものね。発見した時にはもう手遅れ。おまけに進行も早くて。もうまいっちゃうわよ。でももっとまいっちゃうのはお父さんよ。あなたが三歳になるまで生きられないって言われたとき、なんていったと思う?」

 

 「あと半年もお前たちといられるのか。俺は幸せだなぁ。」


 だって。まいっちゃうでしょ?と俺に問いかける。驚いて俺は言葉が出なかった。その話が本当なら、父はとんだ馬鹿野郎ではないか。

 「お父さんね、昔、妹さんを事故で亡くしてるの。だから突然別れも、死の準備もできない悲しみをよくわかっていたのよ。だから命の残り時間を知らされる自分は幸せだって、そう言ってたわ。残される私たちはどうなるのよ、って話よね。」

 

 時が止まればいいって思ってたわ。一生時間なんて動かなくていいって。

 

 「『ごめんな。お前には迷惑をかける。一生そばにいるって誓ったのに、守れなくてごめん。』ってあなたを抱きながら私に言ってきたわ。こんな時も弱音を吐かなかった。私たちのことばかりで、胸が苦しかった。」

 そういった母さんはまた、遠くを見るようで、心は今ここになかった。悔しそうな顔をして、きっと記憶の海に身を投げているんだ。

 母さんが海から上がってくるのを待つ時間は、あれほど冷たかったはずの沈黙と同じなのに、なぜか辛くなかった。

 

『ごめんな。お前には迷惑をかける。一生そばにいるって誓ったのに、守れなくてごめん。』

 『…こんな時まで、私たちの心配なんてしないでよ。家族は私が護って見せるわ。病めるときも、健やかなるときも、でしょ。どんなときだって一緒にいる。』

 目がかすんで前が見えないだろう女を、男はこの世の誰よりも幸せそうな笑顔でそっと抱きしめた。女が声を押し殺してなくなか、あまりにも優しい顔の男を見て、どちらが患者かわからない。ばか、あほ。小さな声で女がつぶやく。それでも男は笑って、そうだよな、ごめん。と言う。

 今この瞬間、男はおそらく誰よりも幸福を感じていた。

 

 ガラン。

 冷蔵庫から氷の音がして母さんがはっとした表情をした。母さんが海を漂っていた時間は数分程度だが、母さんはきっとずいぶん長く感じたのだろう。慌てて時計を確認し、安堵した顔を見せた。

母さんは居ずまいを正し、俺に向き合った。深呼吸を一つし、また空気をふるわせた。

「結果的にお父さんは亡くなったわ。あなたが三歳を迎えた二週間後に。」

 「え…」

 思わず声が出た。俺が三歳まで生きられない、と言われた父は、ともに俺の誕生日を迎えてくれたのか。

 「お父さん泣いて喜んじゃってね。ありがとう、ありがとうってずっと言ってて。七五三の写真も見れるなって凄くうれしそうでね。お母さんもうれしくなっちゃった。」

 でも、

 母さんは続けた。

 「お父さん、頑張りすぎちゃったみたい。突然容体が急変して、安らかに逝ったわ。空気の澄んでる、よく晴れた日だった。まるでお父さんみたいな、そんな日よ。」

 幼い頃、ほとんど記憶がなかった俺の一番古い記憶は、幼稚園の運動会の時だ。残念なことに母さんが作ってくれたお弁当のとか、自分の種目の成績とかではない。

 俺のその記憶は、母の笑顔だった。

 母さんは会場で俺に、見ているからね、頑張れといつものように笑顔で言った。幼い頃の俺はそんな笑顔の母を見ると自然と笑顔になっていたが、当時の俺はなぜか笑顔になれなかった。

 なぜかその日の母さんの笑顔は悲しそうで、泣き出しそうに見えたからだ。

 今思うとその運動会の日も、よく晴れた日だった。

 あの日母さんはきっと、父のことを思い出していたのだろう。父のような空を見て、そばにいない父のことを、嘆いていたのだろう。


 「母さんは、どうして俺に今までそのことを言わなかったの…?」

 この疑問が、ずっと胸の中に渦巻いている。なぜ俺は今まで父を恨むような人物像を伝えられていたのだろう。

 「お母さんも、何度も思ったわ。あなたに伝えられたらどんなにいいかって。あなたの父親はこんなにも素晴らしい人なのよって。」

 叫ぶようにうつむいた母さんがつぶやく。押し殺した声はどこか泣きそうで、俺は何も悪いことをしていないのに、謝りたくなった。

 「お父さんがね、そういったの。『俺のことは外に女をつくったって伝えてくれ』って。」

 「どうして…」

 父がそんなことをいう理由が思い当たらない。父がそんなことをするメリットが一切ない。もしも父が本当に俺のことを愛していてくれたとするのならば、普通はいい父親だったと遺したいはずじゃないか。

 「お父さんはお母さんよりずっと聡明で、あなたのことを理解していたわ。」

目じりに涙を少しためた母さんが、優しい笑顔で俺に言う。それは俺が大好きだった笑顔で、あの写真の父にとてもよく似ていた。

 「お父さんみたいにならないって、あなたなら頑張ってくれるはずだって。父親を喪ったんじゃなく、失ったほうがあなたはきっとやっていけるって。もう二度と会えない父親がいいやつよりも悪いやつのほうが、あなたの心の負担にならないからって。…もしも再婚するとき、あなたが心から祝福できるからって。今度こそ幸せにって、きっと言ってくれるからって。」

 頭がいいのに、どこまでもばかな人よね。消え入りそうな声で母さんがぽつりとつぶやく。

 「私に、自分を忘れて幸せになれって、言ってくるのよ。あなたに、自分の情報を一切残さずに逝こうとするのよ。」

 『残される私たちはどうなるのよ』

 母さんの声がこだました。母さんはきっと、ずっとこの思いを抱えていたんだ。だから俺に父さんの話をするたびに謝っていたのだ。嘘をついていることに対する俺への謝罪。そして、母さんの記憶に生きる父を悪人にすることへの謝罪。

 一人でずっと抱えていたのだ。十数年も。ずっと。

 母さんの目の前で何度も言った。俺はあんな奴のようにはならないって。そのたびに母さんは複雑そうな顔をしていたけど、過去に好きだった男の話だからだと思っていた。

 けれど今ならわかる。母さんは父のような人ではなく、父さんみたいな人になってほしかったのだ。

 優しく、だれよりも他人を思いやれる、どこまでも強い人に。

 「お父さん以上の人はいない。あなたもそう思わない?」

 ちゃぷん

 紅茶にしずくが一滴、落ちる音がした。ゆらゆらと水面が揺れる。

 母さんの目元が、かすかに光を反射している。

 「そうだね。きっといないよ。父さん以上に馬鹿な父親なんて。」

 

 記憶にないはずの父が、もう会うことのできない存在でいることがこんなにもつらいとは思わなかった。母さんの姿がなんだかぼやける。身体の体重を乗せ、机に預けていた腕にしずくが数滴落ちる。

 「会わない」と「会えない」はこんなにも違うものなのか。

 記憶に新しい、少し震えた文字。


 『本当にありがとう。幸せに』


 なるよ、幸せに。父さんが俺たちに与えてくれた溢れんばかりの幸せの何倍も幸せになる。

 母さん。少し声が震えた。

 「約束する。俺は絶対母さんより先に死なないから。父さんの何倍もいい男になって、世界一幸せになるから。」

 驚いたのか、母さんは目を大きく開いた。すぐに顔をクシャっとして笑い、

「ばかね、当たり前でしょ。」

 そうつぶやきマグカップを手に席を立った。俺に背を向けた母さんはどこか肩の荷が下りたように見えた。

 あなたは、

 「あなたはお父さんが生きていた証なんだから。」

 小さいけれど、よく透る声で言った。その言葉は俺の胸に広がり、暖かくさせた。

 俺が生きていることが、父さんの証になる。父さんは、確かにここにいた。ここで生きていたと証明できる。

 記憶だけじゃない。父さんは俺の中で生きているのだ。


 「母さん。」

 今度の休み、一緒にお墓参り行こう。

 振り向いた母さんはまた笑って俺に言う。

 「そうね。なにせここ十数年、ずっと一人だったもの。もう疲れちゃうわよ。」

 いつものようにすこしおどけて見せた。

 「父さんの話、もっと聞かせてよ。」

 好きな花は? 趣味は?

 もっと聞かせてほしい。俺のコンプレックスでしかなかった、こんなにも誇れる父の話を。

 

 カチ、カチ

 時計の針は夕飯の時間が大きく過ぎていることをさしていた。

 「さあて、ごはんごはん」

 キッチンに向かう母を見て、やっと俺の腹が空腹のベルを告げた。マグカップに入っていた冷めた紅茶を急いで口に含み、俺は席を立つ。

 「手伝うよ、母さん。」

 歩を速めてキッチンに向かう。いつもは響くテレビの音が今日はしない。あれほど居心地の悪かったリビングが嘘のように感じる。静かなこの空間に、俺の足音がする。

 

鍋を煮込む音と、野菜を切る音が混ざり合う。 

 一緒にご飯をつくるだけで、一緒に次の休みの話をするだけで、俺が生きているだけで、母さんと俺はこんなにも幸せだ。


 今週末、晴れるといいね。

 お父さん晴れ男だからきっと大丈夫よ。

 普通の家庭ではきっと飛び交う父の話。何気ないこんな会話が、こんなにも暖かい。


 ガラン

 氷の音が、静かに響いた。

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家族写真 きさらぎ @kisara_gi

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