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 数日前から、木芽さんが顔を見せなくなった。

 心配になって部屋を訪ねたら、薄くドアを開けて驟君が顔を見せた。

「木芽さんは……」

「大丈夫っす」

 彼は少しやつれたようで、微笑みに明るさはない。何もないなんてことはないだろう、と想像を巡らせれば幾つか可能性も思いつくけれど、そんなのはどれも現実であって欲しくないものばかりだった。

「本当に?」

 一歩踏み込んで問うたら、彼は表情を歪めてもう一度「……大丈夫っす」と繰り返した。木芽さんはどうしてるの、と重ねようとしたところで、後ろで黙っていた花雨に肩を掴まれる。首を振って、「また来よう」と言ってから、驟君に目を向けて、

「木芽さんによろしくね」

 行こ、と私の手を引く。後ろ髪を引かれて背後を見ると、驟君と目があった。彼はすぐに目を伏せて、扉の奥に消えていった。

「花雨、どうして」

 手をゆるく振り払って立ち止まる。こんな時に隠すことなんて決まっているのに。大丈夫なんて嘘に決まっているのに。

 どうして止めたんだ、と焦って、歯噛みして、押し殺した息が漏れる。私に縋った女性の顔がちらついてたまらなかった。あの顔が木芽さんだったら? 自分の無力が腹立たしくて、驟君を押しのけたところで心臓を抱えて痛みに耐えるしかないのに、だからこそ、息苦しい。

 花雨が私の手を握る。両手で包み込んで、その碧眼が私を射抜いて釘付けにする。

 私を見て、と彼女は言った。

「待たないとダメだよ。必要なら、きっと話してくれるから」

 そう言われたら、私はもう喉の底から呻くしかなかった。

 憂鬱に沈む。雨水に溺れる。泥濘に身体を埋めて、灰色に溶ける。

 彼女の目に映るものを私も見ている。私が見ているものを彼女も見ているだろう。この小さな両手では掬えないすべてを、この細い腕では支えられないことごとくを、この頼りない身体では掴めないあらゆるものを、私たちは確かに感じているはずなのだ。

 身近な人でさえあっけなく消えてしまう。その現実が示す苦しさを、彼女だって知っているじゃないか。

「……ごめん」

 目を合わせて口にする。彼女は、うん、と頷いて、手を放さずに続けた。

「……時雨はさ、ずっと私のこと守ろうとしてくれたよね。炎の中でも、雨の中でも、前に立って、両手を広げてくれたよね。私、それが嬉しいんだ。だから、辛い時はいいんだよ。今度は、私が時雨を守るから」

 ね、と路頭に迷う子供を諭すように、彼女は言った。

 私の空、雲の向こうの青が、私を惹きつけてやまなかった。

 割れた砂時計のように、記憶の砂粒は風にさらわれる。思い出せなくなっていくけれど、花雨の存在が私を生かしてくれる。

 平穏を求めて、もう傷つきたくないと叫びながら、先に続く生き苦しさを共有して、輝く青を夢想しながら雨を凌ぐ。それは、夏の晴れ模様を待ち望みながら雨宿りをしたかつての面影と似て、現在が灰色であることを示している。

 それでも、隣に花雨がいる。彼女が私を映してくれる。

 だからまだ、私は地に足をつけていられるのだ。



 花雨の言った通り、後日木芽さんと驟君が話をしに訪れた。木芽さんは諦観と寂寥を滲ませながら「よっ、久しぶり」と片手を上げた。驟君は無言で彼女の隣に腰を下ろした。

「端的に言うと、私も幻覚が見えるようになった」

 木芽さんは落ち着いた声音で言った。私たちが黙していると、「まぁ、さすがにわかるか」と呟いた。

「八日前から、雨が降ってる日とそうじゃない日の区別がまるでつかない。見えるし、聞こえるし、外に出れば触れるし、臭いだってする。泥の臭い、うっすらとした腐臭……そんなものが、毎日続いてる。いい加減うんざりしてきちゃった。安らげる場所と言ったら、トイレか浴槽くらいなんだ」

 ままならないね、と木芽さんが苦笑する。想像できたとはいえ、衝撃は大きかった。原理や原因がわからない以上、誰にでも症状が出る可能性はあった。それでも、こうして治療法もわからないものに、共に時間を過ごした人が罹っていくのは胸が痛む。重症化した人々の行く末を知っていれば、なおさらだった。

「あの、俺ッ」

 じっと下を向いていた驟君が勢いよく顔を上げた。木芽さんも私たちも、彼を見て小さく目を見開いた。驟君は目尻に涙をためて、言葉を繋ぐ。

「姉さんのことは俺が全部みます。いつか……いつか悪化して、姉さんが耐えられなくなっても、絶対に死なせない。押さえつけたって生かします。だから、その時は、助けて欲しいんです」

 テーブルに頭をぶつける勢いで、彼は頭を下げた。「驟……」と木芽さんは呆気にとられて、私たちも数秒は口を動かすこともできなかった。

 花雨と顔を見合わせる。答えなんて、最初から決まっている。

「わかった。任せて」

「友達だもん。お安い御用だよ」

 驟君はくしゃっと笑って、「ありがとう……」と言った。

「ああもう驟、あんたさぁいい男になってさぁ!」

 木芽さんも泣きながら笑って、彼の髪を乱暴にかき回した。

「やめろって……」

 驟君が身を捩るけれど、それを逃すまいと、いつかのように頭を脇に抱える。そして私たちもまた、彼の頭を撫でるのだった。

 木芽さんの状況が周囲にばれることは避けなければならなかった。治安維持部隊のこともあるし、暴行事件のこともあった。可能な限り静かに、外出をせずに過ごすことが木芽さんには必要だった。

「気にしないでいいよ。私もそれが最善だと思う。……でも、たまには遊びに行かせてね」

 これまで通り、私と驟君が外に出て、その間は花雨が木芽さんと留守番をすることになった。通りは静まり返って、人の数も以前と比べると遥かに少なかった。何が起きるかわからない。何をされるかわからないと、仮設住居群に住む多くが、外出を必要最低限にとどめているようだった。

 残りの時間を憂うように、木芽さんは色々なことを話した。自分や驟君のこれまでのこと。好きだった音楽のこと。楽しかったことも辛かったことも、明るい調子で語って、自分の記録を刻むようだった。

「ねぇ、時雨ちゃん、花雨ちゃん」

 驟君が部屋に残っていて、女子会を開いた時のことだった。談笑の合間の沈黙に、木芽さんは私たちの名前を呼んだ。「うん、何?」と花雨が代表して口を開く。

「雨、降ってるかな」

 木芽さんは、片膝を抱えた姿勢でぼんやりと窓の外を見つめていた。

 ガラスについた水滴が、他の粒を巻き込んで一筋流れていった。しとしとと積もる音は私たちの頭蓋の外にあって、私は木芽さんに言う。

「降ってるよ」

「そっか……よかった」

 彼女は薄く微笑んだ。

「みんな、一緒なんだね」

 木芽さんはそれから、私たちに感謝の言葉と励ましをくれて、隣なのにわざわざ迎えに来た驟君と帰っていった。

「それじゃ、私はこれで」

 ばいばい、と手を振るのに、私たちも振り返した。

 それが、木芽さんと交わした最後の言葉になった。



 夜。叫び声と何かがぶつかる音で目を覚ました。

 木芽さんと驟君の部屋からだった。

「時雨、これ、木芽さんっ……」

「嘘……」

 壁越しに響く声はくぐもって、けれどそれがあの姉弟のものだとすぐにわかった。嘘でもなんでもない、それが現実なのだと突きつけられる。どくどくと脈打つ血管に震えながら、花雨と部屋を飛び出した。

「あ、あ、あああああ、ぎゅ、ぐうぅううううううう……」

 ドアを開けた瞬間に、抑えられていた声が廊下へと拡散する。「閉めて!」私に続けて入ってきた花雨に言って、中に踏み込んだ。

「姉さん! 姉さんッ!!」

「あああぁあああああああああああ──」

 物をなぎ倒し身体を強打するのも構わずに全身を振り回す。絶叫を上げて、もう何も感じたくないともがいて、驟君がそれを、泣きながら全力で押さえ込もうと追い縋っている。

「いやだいやだ雨が、雨が降って、止まない、止まない! なんで、なんでええええっ、ぁああああああ──」

 木芽さんがいた。

 秋晴れの空のように、からりとして温かで、弟思いで。姉がいたらこんな人がいいな、なんて密かに憧れていた。

 認めたくない、と心が拒絶する。

 まさか、そんな、と言葉が滑っていく。

 また私たちは失うのかと、脳が軋む。

「時雨!」

 花雨の声に我にかえる。彼女はすでに木芽さんへと向かって、彼女の腕を掴もうとしていた。

 駆け寄って、花雨の反対側に回って、木芽さんの腕に手を伸ばす。

 唸り、歯軋りして、声帯を擦り切る勢いで声を上げる。振り回された腕が腹部に当たって身体を折るけれど、息を漏らしたまま、それを絡めとる。

「姉さん! 落ち着け……ッ」

 腰に手を回した驟君が呼びかける。花雨も腕を押さえて、木芽さんの動きを止める。

「驟君!」

 木芽さんの力は普段の様子からは想像もできないほどに強く、私と花雨は腕だけで精一杯で、驟君に木芽さんを縛るよう呼びかけた。彼が視線を彷徨わせて、散らばった物の中にビニールの紐を見つけ、そこに手を伸ばしたところで、

「うぶっ」

 木芽さんの足が驟君の腹に突き刺さった。

 驟君の身体が蹴り飛ばされる。そこに意識を持って行かれると、私も花雨も吹き飛ばされて、壁に頭を強打した。

「ぃっ」

 頭蓋が揺れる。痛みで視界が霞んで、世界が遠ざかった。蹲りながら驟君が木芽さんの足に手を伸ばす。花雨が私の名前を呼んだ気がした。

 硬質な足音がしたのはその時だった。かすれつつある木芽さんの声に混じって聞こえたそれは、部屋の前で立ち止まると勢い良くドアを開けて入ってきた。

 誰かが、通報したのだろう。

「ふざけんな、やめろ……姉さんに手ぇ出すんじゃねぇ!」

「木芽さん!」

 兵士たちは次々に木芽さんに向かって、すぐさま彼女を床に倒した。「確保!」立ち上がって掴みかかる驟君は他の兵士が床に押し付ける。「姉さん! 姉さんッ!!」後ろに回した木芽さんの両手に手錠をかけ、「驟ごめんごめんねお姉ちゃんもう耐えられなかったごめん、ねっ、ぇあ、あ、あ」虚ろな目を驟君に向けた木芽さんの頭を押さえ、例の無針注射器を取り出して、

「やめっ──」

 ぷしゅ、と空気の抜ける音がして、沈黙が満ちる。

 声も出せなかった。

 何もできなかった。

 ぐらつく視界の中を、穏やかな表情の木芽さんが運ばれていく。

 驟君が怒りに顔を歪めて叫んでいる。「殺してやる! 殺してやるッ!」

 花雨がへたり込んで、青い瞳から涙を流している。

 拘束を解かれた驟君が、兵士に襲いかかって殴り倒される。

 そして、扉は閉まって、私は。

 膝を抱えて、叫んだ。

 私にいったい何ができただろう?

 私に、誰が守れたというのだろう?

 朝に降り始めた雨は止むことがなく、涙が枯れることもなく。

 驟君が飛び出していく。私も花雨も、彼を止めることはできなかった。



 あれからずっと、驟君は木芽さんの行方を探している。外を歩き回って、重症者が出るとそこまで行って、彼らが連れられていく先を追っている。会話はなく、顔を合わせる機会もほとんどない。私も花雨もそんな彼にかける言葉を持たずに、隣の部屋のドアの開閉の音を聞いては彼の無事を願うしかなかった。

 自殺者も重症者も、日に日に増え続けている。軽い症状が出ている人も同じく増えているに違いなかった。窓から見下ろした通りは人気を欠いて、あれほどあった濁った瞳たちも姿を消している。いよいよ迷惑な他人事ではなくなってきたからだろうか。通りで捕まった女性を冷たく見下ろしていた人たちも、止まない雨の只中に置かれているのだろうか。

 人間が平等を標榜するまでもなく、はるかに公正に無差別に、雨は私たちの中に入り込んでいく。いっそ、誰もが等しく雨を抱えてしまえばいいのでは、と考える。私たちの主観で共有される一つの景色……それによってもたらされる同じ痛み。皆が知っている。皆が体験している。そんな世界なら、私たちは他者の痛みや苦しみに寄り添えるようになるのだろうか。個人や規範を超えた先の世界観で、私たちは互いを掬い合えるのだろうか。

 そんなことを考えていた。これが人間の罪への罰なのだとして、私の罪は、そんな夢を見てしまったことなのだろう。

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