2
思い出されるのは、揺らぐ炎の熱と、あらゆるものが渾然一体となった奇妙な匂いだ。
何かが焼ける音。誰かの悲鳴。ひどく喉が渇いて、汗が止まらなかった。心臓の鼓動は血管を殴りつけて耳の奥まで響き渡り、自分が一体何を叫んでいるのかも、徐々にわからなくなっていく。
私が必死に呼んでいたのは、誰の名前だっただろう。
父ではなかった。父は徴兵されて戦地に行き、数ヶ月前からは連絡も届かなくなった。母でもなかった。母はつい先ほど、倒壊した家のそばで千切れ飛んだ腕を見つけたばかりだった。「死んじゃった」熱に浮かされたように呟いたのは、確かに私の声をしていた。
思い出す。私が呼んでいたのは、彼女の名前だ。
「花雨! 花雨!」
声を枯らし、咳き込みながら名前を呼び続ける。彼女の家に向かいながら、すれ違いはしないかと、彼女は生きているかと、もはや思考もままならない中で、それだけが心配だった。今ここで縋れるものは彼女以外にいないのだと、知らぬ間にそう判じていた。だから、火炎に舐め尽くされた市街地をぼんやりと目に映しながら、ただ彼女だけを探していた。
爆撃があったのは夕刻、花雨と会って、その帰りだった。戦時下での外出は制限されていて、そのわずかな時間を縫って彼女と会うのが唯一の楽しみだった。父の死を疑わなくなったあたりから、かつては優しく穏やかだった母も、冷静さを欠いて錯乱しかけることがしばしばで、いつの間にか、心穏やかにいられるのは、彼女と過ごすひと時だけになってしまった。
昨日と変わらず沈みゆく紺と橙色のコントラストの表面を、乱雑な引っかき傷のように赤が覆っていた。熱い血の滲みが、一面を力任せに撫でていく。
縮み上がってぎりぎりと痛む肺腑を押さえつけながら、それでも、迸るはずだったないまぜの感情を置き去りにしてでも、探さなければ、連れ出さなければと頭が叫ぶ。逃げ惑う人の流れに逆らって、ひび割れたアスファルトを踏みつける。轟々と鳴るのが燃え盛る炎の蠢きか耳鳴りなのかも曖昧だった。鈍色だった空は赤々と染まり、点々と見かける異様な滲みは、黒々と光を照り返していた。
そしてようやく、花雨の家に辿り着いて、
「花雨ッ!」
彼女は私に背を向けて佇んでいた。陽炎に歪む景色の中で、帰るべきだった場所は瓦礫の山と化していた。定まらない彼女の姿は幽鬼を思わせて、現実味を私から奪っていく。
抜け殻だった。あの時の彼女を、他にどう表すれば良かったというのだろう。
茫然自失の様子で、反応はない。私もまた立ち尽くしていた。
「ねぇっ、花雨、このままじゃ死んじゃうよ」
近寄ることもできずに、私は声の限りで叫ぶ。だから、帰ろう? と言いかけて、帰る場所なんてどこにもないことに気づく。じゃあ、なんて言えばいい? 逃げよう、って……逃げて、それで?
どこに行けばいい……?
先のことなど思い描けないことに気づかされて、私はひどく動揺する。目の前で終わり潰えていく日常が私たちのすべてだった。シャボン玉が弾けて消える様を初めて目の当たりにして、何が起こったのかわからずにいる幼子と何が違ったというのだろう。
「時雨」
不意の言葉に身を凍らせる。何もできずにいる私を、花雨が振り返って、
その頬には、涙が一筋。
「ぜんぶ、なくなっちゃったねぇ」
蒼穹の瞳に雫を貯めて、彼女は、笑った。
あの光景が忘れられない。
見るに堪えない悲しみの静謐さを知った。自分たちが抱えているものの脆さを知った。暴力と破壊が心を引き裂いて傷跡を残すと知らされた。そして何より、自分がいかに無力で矮小なのかを理解した。
現実を貫く鋭い痛みを頭の奥に押し込んで、耐える他に道はなかった。一度意識してしまえば、否応なしに囚われる。そして悲しみと怒りに満ちた空想に浸るうちに、また大切なものを失っていくのだから。
鈍感であれ、無神経であれ。今はただ、乖離しているように。
そのように、祈り、願い、呪い、嘆き、自らに強いた。
涙も息苦しさも肋の奥の疼痛も噛み締めた歯の軋みも、すべて忘れていようと思った。
花雨と生きられるなら、私のことなど別に構わなかった。
あの日、私は花雨を守ろうと決意した。だから、彼女の手を引いて炎から逃げ出したのだ。
終戦を告げる放送を、私たちは避難所となっていた学校の地下シェルターで聞いた。その日は朝から雨が降っていて、どこからともなく聞こえてくるラジオの微かなノイズが、雨音と同化して、私たちの周りに降り注いでいた。
ただ、信じていたものが消えてしまったという実感だけがあった。倒壊したビルの断面は遠く霞み、崩落した高架と脱線した電車が横倒しのまま放置されていた。収容が追いつかない遺体は、青いビニールに包まれて整然と並べられ、降りしきる雨に打たれてパラパラと音を奏でている。
抉られた地面、割れたガラス、歪み果てた鉄の形。排水口へと流れていく水のうねりは暗く淀む。焼かれ、砕かれ、汚染された街へと戻っていく人々は、疲労と煤と血の跡で化粧をして、墓場へと向かう亡霊のようにも見えた。
そしてそれは、私たちもまた、同じように。
家の残骸の前で、傘も投げ出して泣き崩れる花雨の姿を見た。
声を殺し、肩を震わせ、座り込んで、何もできずに。
私はその背中を見つめていた。歯を食いしばり、沸々と心の奥底を刺激する泡沫の弾ける音を聞いた。それから私は彼女を抱きしめて、濡れた声のまま呟くように口にする。「花雨」
「私が、守るからね」
この身に代えても、私は花雨を曇らせない。
私に残されたのは、彼女だけなのだから。
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