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 雨が降っている。

 窓越しに外の景色を見ると、一面を糸のような雨が覆っている。モザイクがかかった朧げな光景に、やわらかなノイズがくぐもって響く。窓ガラスの表面に指を這わせると、硬質な感触に冷たさが滲む。

 外側に付いた水滴を、内側からなぞる。反転した風景を弛ませながら、曲がりくねって落ちていく。上から下へ。上から下へ。人差し指をガラスに押しつけて、なぞる。

「今日も雨……?」

 もそもそとベッドから身体を起こした花雨かうが、目を擦るのがガラスに映る。指先を離しながら振り返って、「うん」と頷いた。

「おはよう、花雨」

「ん、おはよう……時雨しぐれ

 ゆったりと立ち上がった彼女が、隣に並ぶ。あくびをかみ殺した目元には、涙が浮かんでいた。

 名前を呼んで互いの存在を確かめるのは、戦時中からの習慣だった。私も彼女も親が死んで、頼れるのは互いしかいなくなって、不安と恐怖の日々を乗り越えるのに必要な儀式だった。戦いは終わったというけれど、私の中に蟠るものは、まだ終わっちゃいないんだと燻っていて、未だ確証を求めずにはいられない。

 見渡す限り、青褪めたコンクリート製の仮設住居群が、腐敗した死体の皮膚のように凹凸を連ねている。急ピッチで建設が進む人工物の群れは、同じ色、同じ形で、私たちのような行くあてのない人々を飲み込み続けている。水が染みて黒ずんだ外壁は、陰鬱さを一層増している。世相は暗く、一寸先の趨勢さえ覚束ない。

「雨なんて、嫌な日だね」

 ため息混じりに彼女が言った。私は、そうだね、と同意して、

「どこかで止むといいね」

 と続けた。

 街並みを映す彼女の双眸は、かつての空の遺産のように、青く澄んで、美しい。私はそれを宝石のように思って、見るたびに失われた鮮やかさを思い出す。

 花雨の色、私の空。けれど、彼女の奥の奥、脳みその出っ張りの襞の先は、憂鬱に沈んで、瞳は翳る。

 雲の上は晴れているか。私たちはいつか、雲の向こうを取り戻せるだろうか。と。

 そんなことを、いつも思う。




 自動工場で生産される合成食料は、どろりとしたおかゆのようなもので、ほんのりと甘みがある。お世辞にも美味しいとは言えないけれど、人間が生存に必要とする栄養が詰まっているというのだから、なかなか侮れない。レパートリーや彩りが乏しくとも、飢えや渇きと無縁でいられるのは喜ばしかった。供給が滞って痩せ細っていくだけの日々に比べれば、はるかに満たされていると言っていい。

「ごちそうさま」

 手を合わせて二人で唱和する。たった二枚の食器を片付けながら、花雨が私に声をかけた。

「今日の配給って、お昼前だっけ」

「一時間後くらい。今日は私が行くよ」

 よろしくね、と言うのに、私は頷きを返した。

 数日に一度、政府主導の配給があって、私たちは凹んだ鍋を持って長蛇の列に並ぶ必要があった。二人していくこともないだろうと、特に理由がなければ交互に担当することにしている。

 窓から外を見ると、陰鬱な街並みはそのままに、けれど雨は止んでいるようだった。また降り出してはかなわないと思って、予定を早めることにする。

 台所の棚を開けて金属製の鍋を掴む。引き出そうとしたところで手が何かに引っかかって、コトリと倒れる音がした。何だっけ、と思いながら手を伸ばすと、布に包まれた硬質な感触があって、私は思い出す。取り出して、そっと布を開いた。

 黒い自動式拳銃。護身用に買った、軍の横流し品だった。女二人の生活で何か必要になるかと思っていたけれど、今の所日の目を見る様子はない。

 どうせ射撃の作法もよくわからないし、と再び包んでしまい込んだ。今後とも使用の機会に恵まれなければいいと思う。

「どうかしたの?」

 ごそごそやっているのが気になったらしい花雨が肩越しに顔を覗かせる。私は「いや」と首を振って、

「ちょっと手が当たっただけ」

 そう言って扉を閉めた。

「じゃあ、ちょっと早いけど」

「うん、行ってらっしゃい」

 花雨が手を振るのを背に、無機質な鉄扉をくぐる。昇降機は混むから、階段を選ぶと決めていた。

 コンクリート剥き出しの段を、鍋を抱えて降りていく。幸い、私たちが住んでいる階はそこまで高くない。上り下りは楽ではないけれど、苦痛というほどでもなかった。考えようによっては、いい運動にもなる。

 私と同様、早めに出ておこうと考えたらしい人たちを追い抜いていく。彼らの顔は一様に疲れ果てて、生きる以外の気力をとりこぼしたかのようだった。土気色、青白い肌。空や壁に蕩けてしまいそうだと思う。私や花雨も、よそから見れば同じに映るのだろうか。終わったのだ、と取り繕って、あるかもわからない先を見据えようと必死に目を凝らすのも、死体には無意味なことなのかもしれない。そんな益体もないことを、ふと考える。

 亀裂の入ったアスファルトには、水溜まりが濁って浮かんでいる。通り過ぎる人々を、色彩を欠いた無感動な光で反射する。偶然に蹴り込まれた石ころが、波紋をうみ、景色を歪ませて、底を掻き回して澱みを増した。

 遠く、建設用重機の駆動音が響き、無秩序な人々の流れは囁きに満ちる。それぞれの痛みが喜怒哀楽から二文字を抜き去って、共通言語として伝播しているのを感じる。誰もが憂鬱を抱えて、その不満の矛先を、粘つく視線で探しているようだった。

 配給所に着くと、すでに列ができていて、ずいぶんと長く伸びている。幾つかに場所はわかれていても、混雑が解消されることはない。

 そっとため息をついてから、深呼吸をして「よし」と呟き、列の中に入り込んでいく。

 何もよくないし、どうにもならないけれど、こんな時には自分を鼓舞する以外にどうしようもないのだった。



 配給はいつもよりスムーズで、待つのも一時間程度で済んだ。重量を増した鍋を抱えると、少しだけ気分がいい。

 鼻歌を作曲しながら帰路を辿る。昼時になると人通りは増えて、囁きは喧騒に変わる。花雨が待っている。早く帰るに越したことはないと、少し足を早めた。

「時雨ちゃん」

 不意に名前を呼ばれたので、通り過ぎた場所へと身体を反転させると、無個性なビニール傘をさした女性が私を見ていた。なんで傘、と思うけれど、その陰から覗く顔は見知ったもので、私は声を上げた。

「茜さん」

 近づいて手を差し出そうとして、それが不可能なのにおろおろしていると、彼女は笑って「いいわよ、そのままで」と言った。

 茜さんは、この街に流れ着いた私たちを仮設住居群へと案内して、色々と世話を焼いてくれた恩人だった。彼女の髪はこんな状況下でも艶やかさを保って、肌も健康的な色を維持している。ちょっとばかし恵まれていたのだと、彼女は秘密めかして言っていただろうか。住んでいる棟が違うのもあって、滅多に会うことはないから、この遭遇はなかなかに稀なことだと言えた。

「お久しぶりです。あの時は色々と……」

「もう、いいのよ。勝手なお節介なんだから」

 茜さんは柔和な笑みを浮かべると、元気そうでよかった、と言った。茜さんこそ、と返したところで、彼女は怪訝そうに表情を歪めた。「ところで……」

「あなたは雨、平気なの?」

「……ええと」

 困惑が先行して、言葉に詰まる。その質問は、彼女が傘をさしていることと関係するのだろうか。雨が平気か、という問いかけへの最適な回答がわからずに、沈黙する。今存在しないものについて聞かれて、どう反応すればいいというのだろう。

 どういう意味ですか、と聞けばよかったのかもしれない。けれど、彼女は私の様子に何を見たのか、ふっと相好を崩して、明後日の方に視線を向けた。

 その先には、無窮の灰色が、雲に覆われた空がある。私は質問に質問で返すタイミングを、完全に見失った。

「若いものね。きっと平気なんだわ……」

 またどこかで会えるといいわね、と言って、彼女は雑踏の中に消えていった。私は見えない背中を見つめて、彼女がしたように空を見上げた。

 雨は降っていない。

 ただ、無表情な世界が、涙も流さずに私たちを見下ろすだけだった。



「茜さんかぁ……私も会いたかったな」

 家に着いて、茜さんと会ったと花雨に言うと、彼女は鍋の中身を保存容器に移し替えながら、残念そうに言った。私は椅子に腰掛けて、足を延ばす。

「元気そうだったよ」

 顔色は良かったなと思い返して、そういえば、と付け加える。「なんでか傘さしてたけど」

「傘? 雨、降ってたっけ」

 花雨が首を傾げるのに、私は横に振って、

「いや……」

 他の人の様子を見ても、そんなふうには思えなかった。茜さんのあの要領を得ない問いかけの意味も、私にははかりかねる。

 何かあったのかな、と花雨は不安げだ。大丈夫だよ、たぶん、と私は根拠のない言葉を投げかける。その空虚な保証は現実を補強しないと理解しているのに、他の励まし方を私は知らなかった。語彙力に欠陥があるのか経験に乏しいのかと言われたら、どちらでも挙手しておきたいところだ。いささか欲張りかもしれないけれど。

 細胞が入れ替わって垢となるように、誰もが日々何かをこぼしていく。温かな声をかけてくれた茜さんだって、道中であれこれ落っことして、それでも心臓を鼓動させてここにいるに違いなかった。私たちはほんのちょっとのやりとりでしか彼女を知らない。彼女が何をその内に抱えていたところで、想像する余地もなければ、どうすることもできないのだと知っている。

「何事もないといいね」

 私はそう言って、彼女に笑いかける。

 無力だと知っている。だからこそ、そんな日常を願うのにも、意味はあるのだろう。



 隣室には木芽このめさんとしゅう君という姉弟が住んでいて、時々顔を合わせては、立ち話をしたり部屋に遊びに来てもらったりすることがあった。私たちとほぼ同時期に仮設住居群にやってきたことや歳が近いのもあって、何かと仲良くさせてもらっている。といっても、会話をするのは軒並み木芽さんで、私と花雨と木芽さんの三人は、よくテーブルを囲んで女子会に興じた。驟君は年頃だったり男一人なのもあってか、挨拶をしても「っす」と小さく頭を動かすばかりで、接触する機会はあまりない。木芽さんのことを大切に思っているのだけは、日頃の様子を見ているとよくわかるのだけど。

「そしたら驟がさぁ、びっくりしてテーブルに足ぶつけてね。ひっくり返って悶絶するのがおかしくて。いや、もちろん驟の事は心配したよ? でもつい笑っちゃってさ。そしたら、恨めしそうな目で見てきてね──」

 カサコソする何某という虫が出た時の話だった。彼女もまた、唯一の肉親である驟君のことを気にかけて、話す内容にはことごとく彼が絡む。からりとした言動の木芽さんと不器用な驟君の二人のことは、見ていて飽きることがなく、よく元気づけられていた。

「驟君は今どうしてるの?」

「驟は今配給行ってるとこ。二人はいつも早いよね、取りに行くの」

「時雨がね、混むと時間ばかりかかって嫌だって言って早めてるの。倍くらい違うんだっけ」

「日によるよ。早く行っても待つときは待つし」

 まぁでも、早めに行く方が気楽かな、と私は言った。そっかー、じゃあ驟にも早めに行ってもらった方がいいのかな、と木芽さんが言うのに、

「今のままでもいいと思うよ。別に支障はないんでしょ?」

 というのも、なんとなくの想像ではあるけれど、驟君は木芽さんが私たちと合流するタイミングを見計らって外出しているんじゃないかと思っていた。木芽さんが自分のことを気にしなくていいように、というのと、私たちに捕まらないように、という二点のために。そう考えると、現状維持を推奨した方がいいような気もするのだった。

「そう? じゃあ、別にいっかな」

 木芽さんはからからと笑った。

 ノックの音がして、「姉さん、戻った」と驟君の声がした。「お、それじゃ、私はこれで」と木芽さんは立ち上がると、手を振りながら部屋を出ていった。

『ごめん驟。昨日のアレ話しちゃったわ』

『はぁ? いや、お前っ……あのさぁ!』

「本当に仲良いよね」

 ドアが閉まる間際の会話を聞いて、花雨がしみじみと言った。頬杖をついて「羨ましい?」と聞くと、「まぁ、ちょっとね」と人差し指と親指を近づけて示す。

「でも、時雨がいるから十分かな」

「なんだよ急に……」

 ふふん、と悪戯っぽく鼻を鳴らす彼女から、私はそっと目を逸らした。

「あれ、照れてる?」

「やかましいわ」

 花雨の青が見えなくなると、世界は一息に灰色に染まる。私はそれが憂鬱でたまらなくて、結局のところ、彼女を見ずにはいられないのだった。

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