第13話 Taboo
涙目で混乱していた(そりゃそうだろう)アンは、今夜はもう下がってもらった。
そして私は、ぺたぺたと旦那様に触りまくって、確認作業の真っ最中である。
「本当に怪我はないんですか?」
「我の血ではない。心配は要らぬ」
ついさっきまで私と頭の悪いやり取りを繰り広げていた人なので、怪我していたとしても大したことはなかろうと踏んではいたのだが―――ということは返り血とか、そういうものなのか。
「恐いか?」
「うーん…あんまり?」
ふわり、と抱き上げられたが、私は元の世界ではなかなか体験しづらい状況に、思考を絡め取られていた。
冷淡すぎてちょっと自分でもどうかと思うが、事は大変シンプルだ。
「旦那様に危害を加えようとする人には、生きていてほしくないですし」
至極当然なことだと思うのに、旦那様はからからと笑うのだ。
「やはりそなた、人間にしておくには惜しいな」
「いや、さすがに人間離れしてる扱いは傷つき―――あれ?」
ようやく私は、横抱きに運ばれていることに気づいた。
「ちょ、まずいですって。下ろしてください」
「良い子を閨に運んでおるだけだぞ」
「だってこのシチュ、今日二回目じゃないですか!」
そうなのだ。
私がめそめそと旦那様に運ばれるのは、本日二回目である。そして前回、何が起こったかといえば、侍女たちによる局地的天変地異だ。
「しまいには呪い殺されますよ!」
「やれるものなら、やるが良いわ」
構わん、と笑う横顔にキュンとしないわけではないが、この状況は私にとっても恥ずかしい。
少し悩んで、私は旦那様の首っ玉にぎゅう、としがみついた。
「…なんだ?」
「こうしましょう。私は帰ってきた旦那様と偶然顔を合わせて、イッチャイチャしていたということで」
だって、泣き虫王妃より、エロ王妃の方がマシじゃね? 世間様の常識は知らねど、私の矜持はそう主張する。
多分、私はまだ少し混乱していたのだろう。その時はこれが、旦那様がまた私を泣かせたと侍女たちに責められない妙案のように思えたのだ。
「ふむ、その芝居に合わせろと?」
「はい」
そして、何やら楽しげに応じた旦那様を警戒するには疲れすぎていた。
まさか、王妃の部屋に入るなり、あんなことを宣するとは。
「―――お前たち、今宵は后と共寝するゆえ、準備せよ!」
ひぃ。
え、そういうこと人前で言っちゃうの? ていうか、ついに? ついに? 苦節四日(早い)、猛烈アピールが実って、この、おいしそうな、肉体を、おっとヨダレが。
どっちが魔族かわからない思考に捕らわれる私をそっとベッドに横たえ、周囲には聞こえぬ声で、旦那様が囁いた。
「何もせぬゆえ、期待するでないぞ?」
うん、知ってた。
この件に関してはやたらと頑なな旦那様なので、そんなこったろうとの予想はついていた。しかしその言い草はなんなのだ。まるで私が期待をしていたかのようではないか。してたけど。
「汚れを落としてくる。后には触れるな」
命じて旦那様が出て行くと、侍女頭のレオノラが、あらあらまあまあ、と麗人らしからぬおばちゃんぽい歓声を上げた。続いて起こる指図する声や慌ただしい足音を聞きながら、泣き疲れた私はついうとうとと微睡んでしまったのだ。
それから十分も経ってはいないだろう。さほど間を置かず目を覚ました私は、部屋に満ちる芳しい香りに気づいた。
いつも微かに漂っている、上品に焚きしめられた香の匂いではない。
意識を霞ませるような、身体にまとわりつくような、妖艶な香り。
そういえば、侍女たちの気配も消えていた。くるまっていたシーツからもぞもぞと這い出た私は、
「うわぁ…」
魔界に来て一、二を争う衝撃に絶句した。
部屋が…ショッキングピンクです……。
落ち着いたヴィクトリア朝風だった王妃の居室が、どピンクの光に染まっている。
何とも言えない既視感にしばし考え込んだ結果、脳内で淫靡なトランペットの音色と共に、ハゲヅラちょび髭のコメディアンが「チョットダケヨ、アンタモスキネー」としなだれるに至った。これか。
「なんだ、この有り様は…」
戻ってきた旦那様まで呆れているのを見るに、これが魔界のスタンダードというわけではないらしい。正直、ほっとした。
旦那様が手をひと振りすると、部屋中の灯りがかき消えた。
元の世界よりも大きく明るい月のみに照らされ、落ち着きを取り戻した部屋を、長い影が近づいてくる。
シンプルな白いシャツと黒いズボン姿の旦那様からは、先程と違う印象を受けた。豪奢な刺繍の入った貴族風のコートや軍服姿ではないからというのもあるだろうが、濡れて乱れた前髪が額に落ちているせいで、随分と年若く見えるのだ。前髪マジックは魔界でも有効らしい。
「待たせたか?」
「…期待せずに待っていました」
「そう拗ねるな」
広いベッドに乗り上げてきた旦那様が、シーツで巻いた置き物みたいな私を引き寄せ、腕の中に包み込む。
「色々と予定通りにいかなくてな。未だそなたを抱くわけにはいかぬのだ」
苦笑して私の顔を覗き込む。試しに目を閉じてみたら、熱い吐息と共に唇が重なった。何度もそっと吸われる穏やかなキスは悔しいことに未経験で、離れていく甘い表情に胸が締めつけられるようだった。
「…気づいたやも知れぬが、我が国は戦争中でな」
「せっ…」
戦争?
返り血らしきものに思うところはあったが、そこまで重い話だったとは。
声を失う私の頬を、旦那様の指が撫でる。
「まあ、戦況はほぼ決しておるのだが、慶事には向かぬであろう? 後始末が済む頃にはそなたも魔界に慣れておろうし、確実に口説き落として婚儀を行おうかと」
「…私がソッコー堕ちたので予定が狂ったんですねすみません」
これは凹む。喪女だから大事にされることに免疫ないんだよ! 惚れっぽくてすみませんね!
「馬鹿を言え、嬉しい誤算というやつだ。つれなくされずに良かったぞ」
恋する男然とした蕩けるような声も抱擁も、信じたいのは山々だが…気遣われているだけのような気がするのは、違和感を拭えないからだ。
首を傾げ、旦那様に問う。
「確かに戦争中に婚儀は望まれないかも知れませんが、侍女たちの反応を見るに、えーと…お情けをいただくのは問題なさそうなのですが」
「…なかなか良いところを突く」
ふ、と口の端を持ち上げた旦那様は男の色気がだだ漏れだ。あー転げ回りたい。
「戦争はほぼ終わったとは言え、万に一つのことがないとは限らぬ。もしや我が消え果てることがあらば―――そなたを寡婦になどしとうないのだ」
「旦那様…」
「本当はここで寝るのも控えたいのだぞ。興奮して眠れぬし! 手を付けぬよう堪えるのも難儀なのでな!」
シリアスな告白の直後、口を尖らせて拗ねるとか…恐ろしい…萌え殺す気か…。
それでも私には、どうしても言わねばならぬことがあった。
「私のことを思ってくださるお気持ちは嬉しいです。でも…」
上手く伝わるかはわからない。頷いて促してくれる旦那様に励まされ、口を開く。
「旦那様の仰る万に一つがあった時、愛された記憶があった方が幸せな気がするんです―――確信があるわけではないですが」
浅い関係のまま大好きな人を失うのと、どちらが残酷なのだろう。
服の上からでもわかる厚い胸に、頬を押しつける。短い髪とうなじを一緒に撫でてくる大きな手は、泣きたくなるほど優しかった。
「でも私、大切な誰かを失っても、出会わなければ良かったと思ったことはないです。だから」
「…言いたいことはわかった。考える時間をくれぬか?」
顔を上げると、少し開いた唇が降りてきて、私の唇を割り開いた。ゆっくりと味わうようなキスに情欲の色は薄く、意識が遠のくような心地よさだけがあった。時折聞こえる、粘膜の離れる小さな音がくすぐったい。
「―――大事で大事でならぬのだ」
切なそうなその声が、濡れた唇に触れた瞬間、完膚なきまでに堕とされた。
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