第8話 はじめてのチュウ(仮)
「いいにおい…」
香水と人の体温の入り混じった匂いだ。
意識が戻ったと気づいたらしい旦那様は私の頭を掴み、もたせかかっていた彼の胸に強く押しつけた。固ってぇ、という文句が喉元まで出掛かったものの、不満を遥かに上回る安堵感に口を噤む。
「…そなたには酷であったか。悪いことをした」
旦那様が遠慮がちに口を開いた。髪を梳いてくれる指が心地好い。
「いえ、全然。むしろ私が
どうやら長椅子に座る旦那様の膝に私が横座りしている状況らしい。つまり座った状態でのお姫様だっこだ。いい雰囲気というには、会話が血なまぐさいのが残念である。
「それよりも、旦那様の手を汚して申し訳ないです」
すると旦那様の手がぴたりと止まった。覗き込んできた狼頭が驚いたように目をしばたかせている。
「…よいか? そなたがここで喰ろうておる物は、我が人間界から持ち込み、殖やすよう命じた物なのだ」
「はあ」
「それまで魔族は、人間の魂をのみ糧としておった」
「はあ!?」
「少ないとはいえ、今も喰ろうておるのだぞ。今さら一人、二人殺したところで何も変わらぬ」
「………はあ」
驚きの「そもそも倫理観が違う」というやつだった。
落ち着いて考えてみればそれも道理で、私にとっては同族殺しであっても、旦那様にしてみれば違う生き物を狩っただけの話である。
なるほどなぁとは思うが、どうにも私は知らないことが多すぎるようだ。のんびりとした毎日は捨てがたいが、これは早急にお勉強の時間を組み込まなければなるまい。
あれ?待てよ?
「まさか旦那様、さっきの魂食べちゃったんですか?」
旦那様の中で生きている(栄養として)、とか嫌すぎるんだけど!
「馬鹿を言え。我はさように悪食ではないわ、穢らわしい」
心底嫌そうな応えに胸を撫で下ろす。だよね。消滅させるって言ってたもんね。
うん。
よし、折り合いをつけよう。
いつか納得できる日がくるかも知れないし、いつまでも思い出すのかも知れないけれど、とどのつまり、私の魂がまた少し汚れただけなのだ。
「旦那様、そろそろ降ろしてください」
「何故だ。まだ良いではないか」
即答で却下されると同時に、また旦那様の胸に頭をぐいぐい押しつけられた。いや、だから固―――あれ?これって抱きしめられてんの?
それならそれで構わないのだが、とりあえず今は離してもらいたい。そういう気分じゃないというか、気を緩めるとへこたれてしまう時というものがあるのだ。さすがに今よちよち甘やかされると私基準の駄目人間になる。ちなみに世間基準ではとうの昔に駄目人間だ。やかましいわ。
「降ろしてくださいってば」
「まさか、そなた…忘れているのではあるまいな」
「何をですか。ああもう無駄に力が強いな!」
じたばたともがいていた私は、旦那様の言葉を聞き流すところだった。
「抱きついてちゅーしたいと言うておったではないか」
「えっ」
何だろう。もの凄く破壊力のある発言を耳にした気がする。
見上げた狼頭は、鼻面にしわが寄った不満げな表情だ。
「その為に二人きりになったというに、よも違えるつもりではなかろうな」
「えっ、ちょ、待っ」
今はそういう気分じゃない―――ていうか、あれは、そうだ、ノリ? 涙目だったのを茶化したかったっていうか、どさくさに紛れて本音混じりだったもので、返しにちょっとドギマギしたけど、おい、マジか…。
「…我をからかっておったのか」
「えー…」
そんなつもりは…ないな、うん。
上体を起こすとあっさり拘束が解けたので床に降り、座ったままの旦那様の首に腕を回す。ふい、と拗ねたように顔を逸らされた。ちっ、萌えキャラめ…。
横顔が晒されたのを良いことに、耳の前(頬?)にキスをひとつ。
伸び上がって両耳と両目の間(額?)にも。
ここまではいい。
「口………っ!」
どうしろと…。
そもそもどこが唇なのか。前面からめくっても大きな牙があるばかりだ(めくってみた)。横から見ると、唯一可能性があるのは俗に言うゴムパッキンの部分なのだが、それってどうよ? 気持ち良いならやるけども!
眉間にしわを寄せ思案する私に、旦那様がにんまりと笑った。
「手伝ってやろう」
言うなり、狼の舌が私の口をぺろん、と舐めた。
ずるくねぇ!?
こっちからはできないやつだし。しかも確かにキスっちゃキスなんだけど、これ親戚んちの犬にやられたことあるわー…。
ぺろぺろんされた後、仕上げとばかりに閉じた口でつん、と突かれた。あれ?これでも良かったんじゃ。
「口ほどにもないやつめ」
「な、何おぅ…!」
旦那様が鼻で笑う。
何が恥ずかしいって、こんな親戚の犬とのコミュニケーション程度のことで顔に血が上っている私だ。許すまじ、この屈辱…。
「さて、そろそろ戻るか」
何事も無かったような様子で立ち上がった旦那様は、私の手を引いて扉へ向かうと、一旦は手を掛けたノブを離して私を抱きしめた。
二度、三度と背中をさする手には慰めではなく、しっかりしろと励ます力が込められている気がした。
私とて、わかっているのだ。
旦那様が道化じみた態度で私の気持ちを引き上げようとしてくれたことも、異形で見えづらい優しさも。
ただこの日、ひとつの不安が胸に兆したのは確かだ。
何も考えずただ毎日を幸せに暮らすには、この人を好きになりすぎてしまった。
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