旅立ちの時!

1

 その人と、今日は一度も会っていませんでした。


 今日だけではなく、ここ数日、彼女の姿を見る事がありませんでした。


 もっと正確には、あの、顔合わせの日から……。


 あの日、弥子ちゃんと私は、三津谷さんに勝負を挑んだのです。やるべき日だったのです。あの日に私が命を削って立ち向かわなかったとしたら、今のこのステージは有り得なかったと確信します。


 私は私で、音楽だけは誰にも負けない自負がありましたし、誰にも負けなかった経験があったのです。


 そりゃ勿論、息子さんみたいな偉人には勝てないかもしれませんが、まともにやり合った事も無いですし、仮にやりあったとしても手傷くらいは追わせる自信がありました。


 でも、それは、私の妄想だったのかもしれません。


 三津谷さんと対峙する時、いつもそう思ってしまうのです。

 どれだけ出し切っても、手が届かない。

 私の渾身を繰り出しても、その上が必ず出てくるのです。


 必ず、です。


 雲を切る思いに駆られた私に、弥子ちゃんは言いました。


「お前、それで全部なの? どんな人生送ってきたんだよ。しょーもねー」


 人生。


 それが、私の頭の中で何度も何度も、鐘を鳴らすように響いたのです。怒りさえ覚えました。


 私の事なんか、どうでもいい。


 でも、その言葉は、私を支えてくれた全ての人を侮辱している!

 怒り猛った私の顔を見て、三津谷さんが言ったのです。


「私にもね、人生はあるのよ。私は、私に敗れた全ての人間の希望を背負って生きているの。勝者としての宿命があるのよ。そんな私を前にして、単身で挑むなんて、失礼だと思わないのかしら?」


 ぐうの根も出ませんでした。気迫はあったつもりです。

 やる気もありました。

 ですが、そんなものは嘘であると、彼女達に言われているようでした。


 うん。

 そう。

 嘘なのです。


 それはとっくの昔に、彼女に見抜かれているのです。


「それって、誰の何の役にも立たないね。私達に与えられた宿命は、誰にもできない事をする事だよ。

 気合とか、やる気とか、そんな甘い言葉で逃げては駄目。何がどうあれ、私達は、人類を変えなければいけない。

 それができないのなら、私達が生きた事に、誰も賛同してくれない」


 来奈は、強い人間です。素晴らしい人間です。

 そんな彼女が、私の為だけに言葉を作ってくれるのです。


 こんな化物みたいな連中の前で私が立っていられる理由は、もう、彼女しかないのです。


 来奈を私にくれて、ありがとう、神様。


 ディストーションの効いたエレキを、一発鳴らす。


 音の振動、波長、音域、私への忠誠心。どれもこれもが、最低だ。

 最低だからこそ、倍率が高い。


「お喋りだね、あんた達。私、音楽しかできないの。馬鹿だから」


 その日鳴らしたギターの音色は、人生で一番汚いものでした。

 でも、それが私なのかもしれません。いつからか、私の作業は人形を作る事になっていて、より上手に、より精巧に、より美しく、より愛らしく。

 作られた無数の人形達の後ろに隠れ、ほくそ笑むでもなく、狂気に高笑いするでもなく、只何もなく傍観しているだけの人間なのです。


 初めて出した私の魂が、こんなに汚く震えているとは思いませんでした。


 不思議。


 ……では、駄目です。彼女にいつも言われているじゃないですか。


 そんな安易に、思考を止めるな。ちゃんと、言葉にしなさい。


 挑んでみると、これは決して難しい事ではありませんでした。

 私は今、欲求に駆られているのです。


 汚く、悍ましく、激しく、この世界で出合った人達を求めているのです。


 もっと知りたい。もっと、先、その先、その向こう側へ行きたい。


 その思いは日に日に増していき、彼女達と行った数度の合わせは、深夜にまで及んでいたのです。


 だから私は、この曲を選んだのです。

 

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