愛すべき人
愛すべき人
できればこの話は、大団円へと向かわせたい。
それには一つ、埋めておくべき穴がある。
一階、二階と立見席を含めて超満員となった皐月会館だったが、この施設には三階のVIPルームが存在する。
本来はこの三階席は、音響(PA)や照明など裏方スタッフの活動の場なのだが、その隣にも部屋が設けられ、通称「VIPルーム」、俗称で「社長室」と呼ばれている。
「照明、一つ落ちてない?」「入場客の導入が遅れてる?」「放送もあるし、開演は伸ばせないよ」「アリサにつながせたら? じゃないと、入りきらないよ」「ちょ、モニターの電源落ちたって! 取り合えず予備電源に切り替えとくよ」
などなど、慌ただしく働いている姿は素晴らしいの一言に尽きる。舞台上の演者をこれだけ世に送り出しているスタッフだ。とても、高校生とは思えない動きだ。
こんなものを見せられれば、この学校の入学希望者が激増している理由も頷ける。
私は通り過ぎ、隣室へ向かった。
一応ノックをして、入室。
ガラスの向けられた巨大な机。パソコンが五台並び、上等な皮の椅子に腰かけた少女は、一台のパソコンで黙々とタイピングを重ね、まるで舞台には顔を向けてはいなかった。
舞台にも、私にも、顔は向いていなかった。
でも、耳と心が向いていると一声で分かった。
「いらっしゃい。久しぶりね」
手を止め、椅子を回して顔を見せた。丸い顔に大きな目、やや寸胴体形で手足も短め。一見すればほんの子供だが、纏っているものが違い過ぎた。透明で分厚いベールが、部屋中を圧迫するように蠢いている。蜃気楼でも発生しそうな靄がそこら中の床から立ち上がり、視線と思われる範疇には、真っ赤な熱で色付いている。
当然、そんなものは錯覚に過ぎないのだが、一目で本能が悟っていた。
本物の、馬東クリス。
かつて見た、あの日の彼女と寸分違わず、彼女はそこに存在する。
二度目なのだから、もういちいち狼狽などしなかった。
「大きくなったわね。色々と、女らしくなってきた」
「そうでしょうね。三年、ですか。女が変わるには十分過ぎる時間ですから」
クリスは部屋脇に置かれたソファに目をやった。
「掛ける? あいにく、お茶までは出さないけど」
「いえ、けっこうです。大した用でも無いので」
首を傾げられた。
「大した用でも無いのに私に面会を求めるとか、随分と肝が据わっているのね」
「その辺りは、当時から変わっていません。私は基本、そういう人なんで」
「そうみたいね」
クリスは机に置かれた、どうみても冷めきっている紅茶カップに手をかけ一口啜ると、また椅子を回してパソコンに向かった。
その背中に、私は訊ねた。
「私のメールアドレス、知っていますか?」
「ん?」
彼女は一寸硬直したが、すぐに「あぁ、そう。そういう事」と理解したようだ。
その姿で、私も理解した。
「なかなか、厄介な部下を持っているのですね」
「違うよ。あれは部下じゃない。親戚。つまり、ライバル企業」
「そういう事、ですか」
次々に謎が解明されていく。
謎というより、彼女……江戸和セイカの執念か。
「そうなると、私は、彼女に生かされていたのですね。残念です。貴女じゃなくて」
クリスのタイプする指が止まった。
「それは、あの子を舐めすぎ。私は、貴女達の当事者になるつもりは無い。時間も無いし、根性も無いからね。
でもあの子は、当事者になるつもりで貴女達に相対している。本気で膝を突き合わせようとしている。その時、最も大切なものが何か、分かるかしら?」
クリスは、顔を向けずに語り掛けてくる。
この行動の意味を、今の私は合理的に理解できていた。三年前には、できなかったはずだ。数週間前でも、できなかっただろう。
でもこの数日で、私にはそれができるようになっていた。
「愛です」
クリスは振り返らずに、親指を立てた。
「よろしい」
その後ろ姿に頭を深く下げ、何も言わず、部屋を出た。
もう、これ以上は必要ない。
私は、幸せだった。体が温かく発熱し、柔らかい、重みの無い毛布に包まれているようだ。
スタッフを横切り、部屋を出る。
と、部屋の前に、彼女は居た。
美しい金髪の毛先を弄び、壁にもたれて、私が出てきたそのタイミングを狙って微笑んだ。
「終わった? お別れ」
私には、私の顔が見える事はない。仕様が無いとはこの事で、目が前にしか付いていない上、私は私に興味が無かったのだから、見えるはずもない。だから今まで、こんな事も知らなかった。
私は、笑った事が無かった。
口角が上がる感覚も、眉が引かれる感覚も、唇の広がりも、初めて感じた。
言葉は、自然と出ていた。
「ごめん」
彼女は、飄々と首を傾げた。
「何が? 謝罪はむしろ、私の方でしょ」
私達は廊下を歩く。
やけに今日は、足が軽い。
肩の荷が下りるという感覚を、初めて感じた。
「じゃあ、謝罪はいらないから、答え合わせをしてもらっていいかな」
「どーぞ、どーぞ」
「これは、誰の為に行ったの? 三津谷朋の為? 坂之上弥子の為? それとも、愛乃千歳の為?」
彼女は「うーん」と天井を仰ぎ見ながら、「一人抜けてるけどねぇ」などとボヤキ、「そうだねぇ、強いていうなら」と言って足を止めた。
セイカは、両手をポケットに入れた。
「私の、愛すべき人の為」
良い答えだ。
私の論理に、間違いは無かった。
この世界は、言葉で出来ている。
「千歳を、お願いね」
彼女はヘラヘラと笑った。
「それは、あんたの仕事でしょ」
「面倒くさい」
「え、それ言ったらお終いじゃん!」
「いいよ、別に。同じ十五年を生きてきたとは思えないくらい、馬鹿なんだもの」
「そう? あれはあれで、可愛いじゃん。マスコット的な」
「坂之上弥子の方が、私は可愛い」
「あれはあれで、可愛いよな。ガキが背伸びしてる感じが、たまらんね」
「三津谷が、よがり楽しむ様が目に浮かぶね」
「うんうん。楽しくでしょーがねーみたいだよ。小出し小出しに見せつけて、お楽しみ中だね。ホント、アイツが一番質が悪い」
「仕方ない。そうでもしないと、暇で死んじゃうよ、あの人」
「そこなんだよね。そこはねぇ、かなりシビアな話なんだよね」
「そのシビアに宛がう為に、私が必要なんでしょ。いいよ、もう分かったから」
「早いねぇ……もう、分かったんだ」
「分かったというか、知ってた」
そう、知っていた。
私は、他者に生かされているのだと。
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