4月4日
1
彼女は、千神来奈。
「変な名前」
と言ったところ、
「貴女も大概だよ、愛乃千歳」
と言い返されました。彼女には万の言葉が守り神として背後にいて、私の拙い言葉などは簡単にやり返されてしまいます。
只の屁理屈女かと苛立った瞬間があり、昨晩、彼女に悪さをしました。彼女は勝手に私の家に来て家族を震え上がらせたのですから、報いを受けるべきだと思ったのです。
昨日出された宿題が、入学二日目とは思えないとてつもない量だったので、「これ、全部やってみて」と言いました。
この宿題ですが、入試問題に全て解説を付ける、というものです。期限は一週間らしく、グループを作って解答を作成しても良い、という条件もありました。
私にそんな友人など居なかったですし、そもそも、昨日から色々な人が私の周囲に纏わりつき、まともに宿題などできない状態だったのです。
ずっと保健室に居たものですから、友達を作る時間もありませんでした。
これは、彼女の責任です。保健室に居ろ、と言ったのは彼女なのですから。
来奈は宿題の概要を聞くと、
「へぇ。優秀な学校だね。グループワークとかコミュニケーションには丁度いいね。入試は、みんな受けてるんだし」
言われて、
「あ、そういう狙いなの?」と言ってしまいました。
「それ以外に、一回解いた問題を振り返る必要なんかないでしょ。で、それは論文形式で出すの?」
「論文……? えっと、形式は」
「形式は不問って書いてあるね。じゃ、やる必要無し。口頭弁論でいい。私が全部その場で回答する」
「いや、駄目だよ! 全部分かったわけじゃないでしょ! 分からなかった問題とか解かないと!」
「そんなの、あるはずないじゃない」
「え……、いや、めちゃめちゃ難しかったし……数学の4問目とか」
「シュワルツの不等式が頭に入ってれば簡単。それを知らなくても少し時間が掛かるだけだよ」
「でも、現国の3問目とかも」
「あれは卑怯な問題だね。原文と抜粋分とで『それ』の意図が違うから。でも逆に出題者のその意図が見えれば解けるようになってるよ」
「じゃあ理科の」
「最後の大問でしょ? あれ、理科問題だから『工夫して考えるもの』って思っているから時間を使うんだよ。単純な三角定理に持ち込むと、普通の計算問題になるんだよね。只その場合、最後にそれを未知数として代入計算しないといけなくて、物理問題を数学問題として捉え、最後に物理問題に戻さない事ができるかどうか? って、引っかけがあるから正答率は低いかもね」
その後いくつか入試問題を述べたのですが、彼女は全問覚えていて、しかも全問正解していて、中には「それ、中学生は知らないんじゃない?」みたいな知識や公式が多数あり、もうこの話題は私の悪戯の予定が、「貴女は馬鹿なの?」と言われ続けるだけの苦悶の時間となりました。
話を振ったのは私でしたが、話を変えたのも私でした。
「と、ころで! 明日は、何をしたらいいのかな?」
「軽音? 貴女の予定は?」
そう言われるまで、私は、明日の行動予定など何も考えていない事に気付きもしませんでした。
「……そろそろ、バンドとか組まないと、いけない、かも」
「なぜ?」
来た、なぜなぜ問答。最早毎度お馴染みになっていました。
「オーディションまで十日しか無いし、逆算すれば、そろそろ組まないと間に合わない、かと」
「その主語だと、オーディション合格が目標だよね?」
「……うん」
「別にバンドなんか組まなくていいじゃん。人が増えればトラブルも増えるし。一人じゃできないの? 音楽って」
坂之上弥子の演奏が思い浮かびます。先日のあの演奏に、他者は不要でした。むしろ、あれが一番最高の形でしょう。
「そんな事は……うん、無い。下手な人だと、合わせるのに逆に時間かかるし、うん、一人の方が早くて確実かも」
「じゃあ、なぜ、貴女は『バンドを組まないと』と思ったの?」
「へ?」
そんな事、考えもしませんでした。確かに、オーディションの合格だけを考慮するのならば、時間的にもソロが確実です。仮に弾き語りをするにしてもピアノ、ギターを使えますし、シンセで音源を作って流しても良いのですから、段取りは組みやすく、十日もあれば十分プランが練れます。
なんなら、明日オーディションでも私は構いません。
冷静に考えればそれが一番初めに思いつくプランなのに、なぜ、どうして私はバンドでなければならないと決め付けたのでしょう。
言葉を求めて来奈に目線を送りましたが、彼女はいつも通り冷ややかで、かつ強烈な直視で、私の視線を返品してきます。
自分で考えろタイムです。
それから何分も無言で考えたのですが、脳は空白のままでした。
私には、何も考える事ができないのです。
「一つ一つ解明していこう。千歳、バンドをした経験は?」
「重奏なら、何度も」
「誰と?」
「先生もあるし、音楽学校の人やジュニアオケの人とか……後、塾の子」
「一番多いのは?」
「塾の子」
「それは所謂、クラシックって事かな?」
「それもあるし、ジャズもロックもある。人によってまちまち。でも、どっちにしろ、ほとんど塾の子としかしてない、はず」
「塾の子、って、誰?」
「誰?」
生まれて初めてでした。
人生の大半を共にしていた人達の名前を、私は、忘れていました。パッと頭に浮かぶ名前が、一人も居なかったのです。
かろうじて、顔……すらも思い出せず、目の瞼とか、髪の毛の先のパーマ部分とか、爪の色とか、そんな断片的なものしか思い出せないのです。
「そっか。塾では、それしか選択肢が無いのだから、覚える必要も無いよね。同感。私も、人生で家族以外の人の名前なんか憶えてないから。となると、バンドに拘る理由は概ね想定できちゃうね。せっかくだし、バンドでいってみようか。どう?」
考えろと言っておきながら、結局、彼女が結論を出しました。毎度のことなので慣れてはきたのですが、本当に私は、これで良いのでしょうか?
こんな様子で、この先を続けられるのでしょうか? 彼女が居なければ何もできない人になってしまいで、ちょっと怖い。
「うん」
「じゃあ、明日の一時に部室の練習スタジオ押さえてるから、そこに行ってみて」
「……えっ」
「何人か呼んであるから、その人達と組んでみるといいよ。組んでくれれば、だけど」
その何人かは、あっという間に脳裏に浮かびました。
金髪と、三津谷朋。
そんな脳裏の映像まで、彼女は見抜くのです。
「後一人、確保する予定。これくらいでしょ? あの学校で、貴女のバックができる人間なんて」
まさか……、坂之上、弥子?
「無理、じゃないかな……。流石に、それは、無理が……」
「無理だと分かっていて、私は動かない。私に可能な事なら、必ず実現させる。だから千歳……」
来奈の直視が、少しだけ優しく私を包み込みました。
「貴女に可能な事は、貴女が実現させなさい。それだけは、私は口が挟めないからね」
似たような事を、先生からも何度も聞かされています。「私が教えられるのは、教養だけだ。歩き方は、自分で探すしかない」。
舞台とは、常闇が支配する孤独の空間です。何百、何千もの無言の衆目に晒され、そこから喝さいを得るには、歩まなければ到底不可能です。
私が何たるものか。私とは何か。それをあの場で見付けられない人間に、喝采は訪れません。
そうして私は、幾千もの人形達を作り出してきたのです。
その経験と自負は、私にもあったのです。
「分かってる。それくらい」
彼女は微笑みました。
「だよね」
この人は、何でも知っている。そこに疑いはありません。
だから今日、怪物達が揃ったこの場を、不思議だとは思いませんでした。
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