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 こちらの気も知らず、勝手に話始めました。

 当然、母は彼女を見て驚愕しました。


 驚愕? 


 とは、少し違う気もしました。なんと言いますか、緊張、だったのだと思います。目の中の瞳は大きく開いているのですが、眉間に激しく皺が寄っています。


 この得体の知れない人は、何なのか?


 友達? であるはずがない。


 そうした混乱だったのでしょう。母は何も言わずに膠着していましたが、隣の彼女が、勝手に話を進めます。


「私、千神来奈(せんがみ らな)と言います。暫くしたら消えるので、それまで、ちょっと千歳さんと話をさせて下さい。あ、お茶とか不要だから」


 これに、母も驚愕していたでしょう。


 私も同様です。


 名前を知りました。千神、来奈というそうです。


「あ、……うん……、あ、はい」


 完全にパニックになっています。

 この隙に私は彼女の手を引き、二階へ駆け上がりました。部屋へ入るとすぐに鍵を閉め、彼女をベッドに座らせ、収まりきらない心臓を抑え込みました。


 数分、そのまま呼吸を整えて、座敷マットの上にへたり込みました。


「あのぉ……。みんなビックリするから、ちょっとは気を使って下さい」

「何の?」

「え……いや、その……」


 隠す事でも無いでしょうし、絶対に気付いているのでしょうが、やはり自分の口からこれを言うのは、抵抗もありました。


「友達……とか、家に来た事、無い、です、から」


 私は気恥ずかしく赤面していたのですが、彼女は首を傾げているようでした。


「え……。んん……、そうなんだ」


 違和感のある雰囲気でしたが、そんなところを疑問に思われても仕方が無いのです。無いものは無いわけで、今更過去を改竄して虚勢を張ってみても、どうせこの人は気づくのです。


「と、とにかく、です! 大事件なんです、うちにとっては!」

「うん、分かってるけど、いつかはこういう日も来るんだから、仕方ないじゃない。たまたま、今日がその日だっただけだよ」


 確かに、そうでしょう。こんな私にだっていつかは友人ができるでしょうし、さもすれば、こんな状況は何れ来るはずです。


「でも……、準備がいるんです」

「何の?」

「心の……」

「そうなの?」

「そうですよ! 今頃、絶対、下で大会議中ですよ! 私が……その」

「だろうね。でも、家族だっていつかはこんな時が来ると思っていたはずだから、別にそれで、問題は無いと思うよ」


 いちいち真っ当な答えが返ってくるので、私は少々苛立ちました。

 私が苛立っているといのに、彼女はやけに冷静で、私の部屋をのんびりと見回しています。

 見回すだけでは飽き足らず、本棚の書籍を観察していくつか手に取ってページを捲ったり、私のギターを指でピンピン跳ねてみたり、それどころか机の上に置いていた日記帳まで手をつけようとしました。


「ちょっと! それはない!」

 叫ぶと彼女は止まりましたが、「え?」っと不思議気な顔を向けてきました。


「いや、人の日記とか、普通見ないよね? 普通見ないんじゃない? 普通見ないよ!」

「私が、普通に見えるの?」

「見えませんけど!」


 日記帳を奪取して、机の鍵の掛かる抽斗へしまった。

 発狂に次ぐ発狂で、私はヘトヘトになりました。

 流石に疲れて座り込むと、彼女はベッドに座って嘆息しました。


「とりあえず、私の調査は終わったし、次は貴女の番で。……で? どうだったの? 三津谷は」


 疲れたところに、重い重力が圧し掛かった。

 重力と共に、あの音楽が聴こえてきました。

 彼女の弾く、あの姿。

 どこからともなく聴こえてくる、無限の音。


 音の中には静寂があり、静寂の中には生命の囀りがあり、その全てが彼女を取り巻いていて、地球そのものが、彼女と同化しているように見えました。


「分からなかった、の」

「何が?」

「……それが、分からない」

「ふんっ」


 彼女は一度首肯すると、胡坐を掻いて私に向きました。人差し指を一本立てて。


「そういう時は『分解』を使うといい。大きな式に複雑なものがあるから分からなくなる。不明な物は記号にしてしまえばいいし、二重根号があるなら外してしまえばいいし、分数が厄介なら部分で分解してしまえばいい」


「あの……、もうちょっと分かりやすく、お願いできませんでしょうか」


「音楽の性質をいくつかに分解してみたら? 貴女が思う、音楽にとって一番大切なものは?」

 ぼんやり考えました。


「それって……どういう状況で?」


「はい、それね。『状況』。家で自分だけを満足させる為の場合と、目の前の一人を満足させる場合と、数十人の観客、数千人の観客、はたまたCDの向こう側の人。それによって音楽は変わる、って事でいいよね?」


 あぁ、そういう事なんだ。


「あ、はい」

「とりあえず一つでた。でも音楽ってそれだけじゃないよね? 重要なもの、他に無い?」

「技術、だと思う」

「なぜ?」

「よく人は個性って言うけど、それって、技術ありきだよ。表現したい感情や、弾き方はその時々で変わるけど、その時々に対応できる無数の奏法を知ってないと、表現できないもん」

「なるほどね。もう一歩進めると『知識』って事だね。知識というのは、今まで自分が培い、習得して、体現できたもの。無論、技術も含まれるし、感情とか経験も含まれる。知識の中からでしか人は思考できないし、思考ができないのなら行動にも移せない。はい、他には?」


「んとね……」


 色々ある……、はずでした。彼女よりも、私は音楽に精通しています。勉強の事は絶対に勝てないのでしょうが、音楽の事なら絶対に負けない自信はありました。


 でも、もう答えが見えてしまったのです。


 これ以上の何を言っても、外堀の装飾品でしかなく、ダイヤがどうやってできているかが分かった時点で、それがエメラルドでもサファイアでも、単なる重力によって結晶化した鉱物でしかない事が分かってしまったのです。


 たった二言で、彼女は、私の空白を埋めたのです。


「そっか、だから、分からないのか」

 平坦に、彼女は首肯しました。

「そうだね。三津谷のターゲットは、たぶん、人間じゃない。あの人はもう既に、人が何を聴けば歓喜するのかを熟知しているし、何を聴かせれば絶望を味わうのかを知っているし、何を聴かせれば貴女が戸惑うのかを知っている。これは予想だけど、千歳、貴女が先に演奏したのでしょ?」


 千歳……。


 彼女の言葉の内容より、その語彙が、鮮烈に私の脳に響き渡りました。


 彼女が、初めて、私の名前を呼んだ気がしたのです。


「……うん」


 呆然としていましたが、彼女の話は続きました。


「私も、入学式の日に彼女を見ているの。だから分かるよ。彼女は『完全』を目指している。完全なんて、とても人が目指すべき領域に無いのだけど、それが分かった上でそこを目的地にしている。もう、下賤な人間なんて相手にしていない。良く人は『天才』とか言って優秀な人間を卑下するけれど、それって結局、人に足を掬われる程度の力量って事なんだよ。才能の枠の内にある以上、人では彼女の力を認識できないのかもしれない。つまりね……」


 意味不明な御託が続きました。彼女には、私が見えていない物が見えるようで、それが一体なんなのかを知る術はありません。


 私に分かった事はただ一つで、彼女はこうして私にできない論理を唱える事ができて、その言葉も理解できなくて、でも絶対に、それは私の為に考えてくれていると確信できて、私はそれに従えば良いのです。


 私に、意志が無いと思う人もいるかもしれません。

 人に頼ってばかりで、自分では何も考えられない人間だと思われるかもしれません。


 でも、自分にできない事を人に託して、何が悪いのかも理解できません。

 彼女がこうして、私が言葉にできない何かを言葉にしてくれる。


 だから私は、音楽だけやっていられる。


 本当に、私は運があります。

 何も分からず途方に暮れた昨日、彼女に出会えたのは、まさに奇跡だったのです。


 私は、弁論する彼女の手を握りました。


 両手で、しっかり。


 ちゃんと、目を見て。


「千神、来奈、さん」

「ん?」

「私の傍にいて」


 彼女は、私の頭を撫でました。

「そのつもり。でも、一つ約束して」

「うん」

「私達は、一心同体ではない。自分の事は、自分でやって。口は出すけど、手は出さないから。てゆーか、出せないから」


 首肯しました。


 それは、私の望む最高の答えです。


 音楽の事だけは、私も譲る気は無いのです。


 協調ではなく、共闘。


 その明確な線引きが、心地よかったのです。

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