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ぴったり五分で音楽室に着くと、三津谷は「さて」と言って振り返りました。
「殺意が凄いわね。やる気満々みたいですし、一曲見せてもらえるかしら?」
と、言いながら、音楽室の奥にある準備室に向い、なぜか鍵を持っていて、そこに入って行きました。
その間に、音楽室の設備を見渡します。予想はしていましたが、ギターアンプなど無く、壁際の棚にはクラシックギターが並んでいるだけです。グランドピアノは勿論あります。
でも、それで十分です。クラシックギター、ピアノがあれば、そこから出せる隠し玉など幾らでもあるのです。
とはいえ……、ピアノは止めておくべきでしょう。三歳でショパンのエチュードを弾くような人外に、通用するとは思えません。
では、クラシックギター? であれば、玉は多いのでやりきれるでしょう。一つ不安があるとすれば、爪の調整ができていない事です。エレキギターで調整をしていた為、こちらを疎かにしていました。手入れをしたのは数週間前ですので、満足に行く演奏ができるのか分かりません。
ですが、ギターの方が可能性はある、と思っていました。
ギターに睨みを利かせていると、三津谷は準備室から戻ってきました。その手には、小さな形のハードケース。
その形、大きさに、私の瞼は全開しました。
ケースを片手に、三津谷は微笑みました。
「良かったわ。ここの所手入れをしていなかったのだけれど、ギリギリ使えそうよ」
小さなケースを開け、それを私に差し出しました。
ヴァイオリンでした。
それも、見ただけで分かる木目の美しさ、重厚感、発するオーラ……。相当の一品である事に違いなく……。
「ストラディヴァリウス。十分よね?」
はぁ―――?
嘘でしょ?
こんな場所に? なんで?
「あぁ、私、意外と雑なの。楽器にあまり興味が無くて。先月からここに置きっぱなしだったから、弦は張り替えていないのだけれど……十分よね?」
手渡された名器は、紛う事無き本物だった。製造から数百年も経った木材なのに、手の平に触れた感覚はとても硬質で、気品が高く、「私を使えるのか? お前」と侮蔑してきます。
この名器には、現代の物とは違う点が数点あります。
一つ、長持ちする事を前提に作られていない。当時、1700年代では、楽器は消耗品と考えられており、長く使える事より、良い音を鳴らす事に重点が置かれていました。
二つ、大勢の観客を想定していません。現代のように、数千人を前にヴァイオリンを演奏する事など皆無だった時代、主に演奏場所は宮廷内の一室だったのです。つまり、只ひたすら、この場の、この瞬間だけに良い音を出す為だけに作られた楽器群。その最高峰が、このストラディバリウスなのです。
かつて一度、海外演奏会の折に触れた事があります。その感覚と、今、この瞬間の感覚は見事に一致します。
これは、本物のストラディバリウスです。
驚愕もさることながら、別の意味で私は震えあがったのです。
なぜ、私がヴァイオリンを専攻していた事を知っているのか?
これを知る人間は数人しか居ないはずで、それは全て「塾」に絡む人しか居ないはずなのです。
それを、なぜ?
呆然としている私に、三津谷は首を傾げました。
「あら? エレキより、そちらの方が長いのでしょ?」
「な……んで」
吃っている間に、即答された。
「一曲聴けば、分かるわよ。私を、そこらの評論家気取りと同じにしないで」
「……はい」
そっか……。
やはり、そこらの人間とは違うのです。昨日の一曲で、私など、簡単に解明されてしまうのでしょう。
恐らく、彼女に見えているのはそれだけではありません。
これに気付いたのは、私が、ヴァイオリンに触れた時からでした。
私が物心ついた時、演奏していた楽器はピアノでした。当時弾いていた演目など一つも覚えていませんが、それはそれで、観客を沸かせる程度のものはあったのだと思います。沸かせた記憶があります。しかし、凄い演奏ではないと知っていました。
観客の拍手に同情というか「子供がこんな演奏できて凄いね」という感情が多く混じっていたのです。
私は、それが苦痛でした。心の底から手を叩かない人が、嫌で嫌で仕様がありませんでした。
なぜあの人達は、そんな目で私を見て、自分は弾けもしない曲を弾く私に上から目線で拍手を送るのでしょう? それが、大嫌いでした。
そんなある日、息子さんの演奏会(リサイタル)を見にいくと、観客は本当の拍手を送っていました。心底「ブラボー」と言っていました。
彼も当時はピアノ演奏だけを行っていたのですが、私の演奏と彼の演奏では観客の反応が違ったのです。
違いに、私は気づきました。
彼の演奏には、迫力があったのです。楽譜には、守るべきルールが記されています。私はそれを忠実に演奏していましたが、彼は、自分の解釈に基づき、この場だけの最高を作り演奏していたのです。
これを観た瞬間、私がすべきは、ピアノでは無い、と感じたのです。きっと私は生真面目で、指示の枠を超えるという事に抵抗があったのです。
ピアノという楽器は、音域の幅は広いのですが、個性というものには滅法弱い楽器です。だって、そうでしょ? 「C(ド)」を人差し指で押した時の音は、私も貴女も同じ音なのです。誰がやっても、同じ音を出せてしまう。そんな楽器に、個性を求める事自体が間違っていると感じていました。
これを先生に話した所、先生は言いました。
「では、弦楽器ならば、自分が表現できるというのかな?」
これが、私とヴァイオリンの出会いでした。
弦楽器と打楽器の特性の違いは、単に、ビブラートの違いです。打楽器は音の羅列でしかビブラートを演出できない。弦楽器は、無制限です。指の動き一つで、如何様にでも変化できるのです。
ヴァイオリンは、私を熱狂させました。
私の思い一つで、どんな音にでも化けるのです。楽譜に従えというのならば、その通りに。個性を出せと言われれば、その通りに。しかも、その音は毎回均一ではなく、私のその日の感情、心情、健康バランスにさえ影響されるのです。
まるで、生き物。
得体の知れない物を肩に担ぎ、演奏し、それが評価される。
未来の見えないそれに、私は熱狂しました。
と、ヴァイオリンを渡されて、思い出してしまったのです。
それも、希代の名器ストラディバリウス。彼は、中途半端な私の熱意では、応えてくれそうにもありません。
何を、弾こうか……。
数多の想いで、苦悩、指の痛み、発狂。全部、蘇ってしまいました。
何を弾けば良いのでしょうか?
無数に蘇る名曲達の楽譜を前に、私は嬉しくて仕様がなかったのです。追いつめられているはずなのに、嬉しい。
久々にヴァイオリンを弾くというのが、たまらなく嬉しい。
あれも弾きたいし、これも弾きたい。
でもやっぱり、あれにしよう。
もし、「人生で一番苦労した事は?」と訊かれれば、こう即答します。
「バッハ……シャコンヌで」
弓を掲げ、一音目に集中する。
今、この弓を弦に付けた瞬間、あの苦悩が始まってしまいます。
この曲は、私の精神を全て喰いつくす魔物です。
私の全てを明かさなければ、この曲は、私に心を開いてくれないのです。
こう感じたヴァイオリニストは数多に居るでしょう。だからこそ、ヴァイオリン独奏史上、最も有名な曲なのです。
生き様、人生、全てを込める。
十数分で、私は全てを出し切るのです。
全ての装飾品をかなぐり捨て、それで足りはずもなく、今の私も全部、全部使い切り、そうして漸く演奏できる曲なのです。
序盤数小節で、前方の千歳達など全て使い切りました。
こんな人形共で、弾ききれると思ってはいません。ここから先は、総力戦。私は、死ぬつもりです。こんな恥部を晒し、醜態をさらし、それを見抜けない程の猿が、目の前に居るはずがない。
今、どんな顔で私を見ているの?
今、どんな体勢で私を見ているの?
それを知るのが怖くて、目を瞑り、夢想の中で弾きました。
私を晒した十分。
そこで、私は尽きました。
まだ、最終章までかなりの小節を残しているのに、もうこれ以上出てこなかったのです。
弓を持ったまま固まり、何も弾けなくなりました。
もう、私は、からっぽだったのです。
何も聴こえない。
何も見えない。
無限の時間が、私の前で過ぎ去っていきました。
硬直して動けない私。途中で演奏を止めてしまうという、大失態の私。もう、死ぬしかない私。
絶望で息もできない私を、生還させたのは、彼女でした。
「んん……いいわね」
いい?
良い?
私が?
私が?
はっと目を開くと、目の前に三津谷の顔があった。睨むように睨めした瞳が、私の眼球を抉ってきました。
彼女は、私の隅々を観察したのです。
数秒? 数分? 数時間?
彼女は観察が終わったとばかりに、私の肩を叩きました。
「はい、終わり。もう、いいわよ」
合図と共に、私は床へとへたり込みました。まともに立っていられる力が残っていなかったのです。
肩で息をする私の前で、三津谷は飄々とした面持ちでした。
「んん……、これは、予想外ね……。どうしましょう」
悩んだ格好をした瞬間、地べたに座り込む私の前に、膝を折って目線を合わせてきました。
真っすぐな瞳を、また、私に向けてくるのです。
「凄くね……、良い演奏だったのよ。想定よりも。だから本来は、拍手でもして見送るのが合理的な判断だと思うのだけれど、それはね、筋じゃないの。分かる?」
この言葉は、私に、地球よりも重い重力をかけました。
潰される。
たった十数年の生涯だけれど、それでも、人生で一番の演奏をしたのです。
だから、拍手をして欲しかったのです。
「す……筋で」
言ってしまいました。
確かに、筋は、こうじゃないのです。私が良い演奏をして、それを彼女が拍手して、それで終わりました、という事ではないのです。
彼女を倒したいと、私は思っていたのです。
でもこれが、絶対に叶わない夢なのだと、もう、彼女の言葉からでも分かります。彼女は見た目と違い、優しい。優しいから、筋を通す事を躊躇っているのです。
なのに、私は……、決着を求めたのです。
「そう」
彼女は立ち上がり、準備室へ向いました。彼女の歩みの一歩一歩が、死刑宣告の裁判文書の文字のようでした。
そこへ入る前、一度足を止め、彼女は振り返りました。
「私に負けたとか、思わなくてもいいのよ。今日の貴女は、世界で一番、私を感動させた」
そう言って、彼女は準備室に消えました。
私の頬には涙が伝い、ブラウスにも、ブラにもしみ込んで、全身がぐしゃぐしゃになっていました。
準備室から出てきた彼女は、チェロを持っていました。
私の前に座り、泣きじゃくる私の前で微笑みます。
微笑んだその顔は、もう、私の知る三津谷朋ではありませんでした。
この顔、この違和感。
私には、分かります。
彼女の、前方です。
全身全霊で挑んだ私に、彼女は、前方の彼女で差し向けてきたのです。
「では、私もバッハで。無伴奏、一番ト短調」
この日私は、世界の音楽が未完成だった事を知りました。
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