6
彼女は、私を知っている。
なぜ?
誰が?
心当たりが多すぎました。先生が真っ先に浮かんだのは言うまでも無く、息子さん、息子さんの周囲、親? それくらいが私の人間関係の全てでしたので、私の全てが、彼女のスパイに思えたのです。
この不安を解いたのも、また、彼女でした。
三津谷は笑みを止め、私の手を握りました。
「違うわ。貴女の先生は、貴女を立派に育てたのよ。それは、そう、私の前に立てる程に。だから安心して。こんな恐怖で、貴女を壊してしまいたくない」
彼女の握った手は、優しかった。
ゆっくりとした鼓動が、ちゃんと私にも伝わってきました。この人の言葉に、裏表はないと確信できました。
こんなに揺さぶられているのに、心は、言われるがままに落ち着いていました。
だからこそ、誰が、何の悪意を持って私を暴露したのか理解できました。
「貴女のところの、怖い人にね」
でしょうね。
私は私で、狭い世界を生きてきました。狭いというのは、ある意味では手の届く範囲という意味であり、私の知る人間など数名しか居なくて、その誰をも隅々まで知っていたのです。こんな詰まらない策略を仕掛ける人間が居ない事など、私が一番よく分かっているのです。
であるのならば、三津谷に私をばらしたのは、彼女しか居ないのです。
なぜ、ばらしたのか?
それは、重々に分かりました。
私の、今後の道を作る為です。
昨晩、私は彼女に相談を持ちかけました。今後のビジョンがまるでなく、世界に出たいと息巻いたくせに、何をどうすれば良いのか分からない、と。その回答が「一般人になる?」であり、そこに首を振った以上、最早、三津谷との戦いは逃れようのない試練なのです。
初めてでした。音楽で、誰かと競わなければならないというのは……。
心は冷静でしたが、体が硬直してしまっていて、その解決方法も分かりません。
私が分からないのに、彼女は分かっていたようです。
三津谷は、人差し指を私の胸の真ん中に当ててきました。
「音楽室を取ってあるの。そこで貴女を聞くことにします。ここからですと、五分くらいで到着してしまうかしら? 五分もあれば十分よね? どれを出すか、決めておいてください」
胸に突き付けられた人差し指から、マグマの如き熱が広がりました。
やはり、この人も見抜いています。このクラスの人間に、私の前方など簡単に見抜かれ……、
「後、昨日の前半のアレは、いらないわ。あんなものを出したら、許さないから。馬鹿にしてるの? って怒鳴り散らすから」
前方の千歳では到底太刀打ちできないと、はっきりと伝えてくる。
私の、私。
たぶん、今まで、誰も聞いた事が無いはずの私。舞台にかけた事もないですし、先生にすら、ほとんど披露した事がありません。それが通用するかは、全く未知でした。
そんな状況すらも、三津谷は見抜いていたのです。
「どれだけ不細工でもいいので、それで向かってきてください。その原石のポテンシャルを見たいの。正直ね、今まで貴女が積み上げたものじゃ、つまらないのよ」
「……はい」
三津谷は美しい笑みを私に送ると、付いてこいとばかりに部室を退室していき、その後を追いました。
彼女の上履きの踵だけを睨めして歩く中、胸の奥から広がった怒りが、全身を奮わせていました。
前方の千歳が通用しない事は、本能的に理解していました。ですが、これはこれで、私が今まで積み上げてきたものの一部です。
舞台で試し、客の反応を見て、技巧を凝らして作り上げたものです。これを否定されているだけでも、苦痛はあったのです。
しかし、彼女の言葉は、それ以外の私にも向けられていました。
私の隠している、まだ試していない色々な素材。
その全てを、取るに足らないと言っている気がしたのです。いえ、言ってたのです。
私を、何も知らないクセに、昨日のたったアレだけを見て否定されるなど、許せませんでした。
まだ見せていない隠し玉なんか、いくらでもあるのです。
躊躇なく、全てを見せてやろうと思いました。受け止められないくらい、全部の隠し玉を見せつけてやる。そんな事をしたものなら、音楽は崩れてしまうのでしょうが、それは向こうだって分かっているはずです。
分かった上でそうしろと言っているのですから、容赦など必要ありません。
全力で、こいつを潰してやる。
殺意にも似た激情を漲らせ、彼女の後ろを歩いたのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます