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 思い出した途端、体中が熱く燃え滾り、血が沸騰しそうになりました。それと同時に、私は全身が震えたのです。


 彼女の名を聞いたのは、つい最近でした。


 塾が解散した理由は、私が、世界に出たいと言った為です。世界とは世界コンクールとか、そうした意味合いではありません。


 あの塾は閉ざされた世界した。たった数人の生徒しか居なかったし、生徒の入れ替えもなく、始まった頃から同じ生徒しか居ませんでした。

 それに、日本での演奏会は禁止されていました。

 学校の音楽会でのピアノ伴奏ですら禁止されていたのです。先生の居ない場所で誰かに演奏を聴かせる事が、禁止されていたのです。


 演奏ができる機会はもっぱら海外しかなく、それも先生のファンであろう観客の前でのみでした。


 この温い環境が、もう私は嫌だったのです。


 こんな場所で猿人形を相手に演奏したって、これ以上になんか成れません。思春期特有のエゴだと周囲の大人は言いましたが、そんな安直な感情ではなく、単純に、成長速度が日に日に遅くなっている事に焦燥していたのです。

 

 それは塾生達も同じだったのでしょう。

  

 塾の解散は、私達塾生の、全員一致の結論だったのです。


「私達は、戦いたい」


 守られた環境では、これ以上を望めないと思っていたのです。


 先生は、意外とあっけなく許可をくれました。塾は、即座に解散が決定します。去年の秋、半年前の事です。


 十二年も続いた塾は、ほんの数日の会話だけで終わったのです。


 実はこの時、私は呆然としていました。表面上は噴気していたのですが、まさか、本当に、解散するとは思っていなかったのです。


 最後に先生は、私達を集めて言いました。

「頃合いだと思っていたよ。ここでの成長は、もう限界なのだろうと察していた。今日は、君達の最大の疑問に答えておこう。

 『なぜ、日本で演奏をさせなかったのか』だ。

 喜ばしい事に、もう数年も待たずとして、日本音楽史は最盛期を迎える。人類の音楽史でも特筆されるべき時代がやってくる。その筆頭にいるのは、私の息子。そしてその界隈の連中だ。……などと、世間は認識している」


 私も、そう捉えていました。先生の息子さんは私達も良く知る人物であり、時々講師をしてくれたり、海外演奏の時も足を運んでくれたり、演奏アドバイスをくれたりする優しい兄貴分でした。

 

 そして、何より、途方も無い才能と実績を持つ大天才です。


 一般的に雑誌などで「音楽の天才」と言えば、その息子さんであり、それは世界共通認識です。如何せん、世界コンクール優勝の最年少記録を持つのがその人なのです。因みに、馬東クリスさんの彼氏です。


 彼を中心に、今後の音楽シーンが動いていく事は、日本のみならず、世界中がそう思っていたのです。


 でも、先生は言いました。


「残念だが、それは、誤りだ」


 その時、私は思い出したのです。数か月前に一度、息子さんがぼやいていたのです。


「あんな部隊作って、どうする気だよ……朋」


 今、思い出しました。あの人の言葉にも、既に、彼女は居たのです。

 そして、彼が何を見て、それをぼやいたのか。

 彼の手に握られた新聞の見出し……。


「世界最強! 無敵管隊バークリード女学院、吹奏楽部」


 脳裏に、息子さんのあの言葉、そして先生の言葉が蘇りました。


「天才というだけでは、勝てない人間がいる。君達と、同じ世代に」


 先生は、「同じ世代」という瞬間、私の目を見ていました。だから、間違いありません。同世代ではなく「同学年」です。


「既に知っている者もいるだろう。私は、アレに、君達が食い殺されるのを恐れた。我々の庇護がなければ、君達は彼女の飼い犬にしか成れなかった。日本は、彼女の縄張りだ。そこに向かう以上、覚悟を持ちなさい」


 先生は、私の背中に手を置いた。


「まずは、耐えなさい。三津谷朋を前に、それすら常人には不可能な事だ」

 

 保健室のベッドで、私は身悶えしていました。

 

 震えがとまらず、怯え、病人でも無いのに保健室にいるのが相応しい人間となっていました。

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