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こうした思い出の詰まった回顧本棚なのだが、一冊だけ、私の知らない本がある。
厳密に言えば、ほとんどの本の内容なんか覚えていない。今しがたのプラトン先生の言葉だって適当だし、カント先生の言葉だって適当だ。内容の全てを覚えている分けではないのだけれど、本筋の理解と、咀嚼はしている。だから、当時の感覚が鮮明に蘇る。
でも一冊だけ、それが、無い。
タイトルは何度も見た。だから覚えている。しかし、何度タイトルを見ても思い出せないのだ。
それが怖くて、中身を読んだ事はない。
普通に推測すれば、母か父か祖母か誰だか知らないが、勝手にこの本棚に置いたのだ。下段が絵本ばかりなので、たまたま倉庫のダンボールから出てきた絵本を「これ、あの子のかな?」とか勝手に考え、ここに並べたのだろう。
推理はできるのだけれど、私はずっとそのままにしていた。私の知らない何かがそこにあり、そうした物は思い出の中にいくらでも紛れているという恐怖を、ここに残す為だ。
私にとって、否、理性を持ってしまった人にとって、最大の恐怖は「死」である。
なぜ恐怖か?
知らないからだ。
残念ながら、死後の人間が現世に降臨する手段が、発見されていない。この宗教観の無い現代日本では、死者の世界から生還した英雄すらも存在していない。私達は死後を知らない。だから、怖い。
怖いから、それが現世の原動力になる。
一億年生きようが、一兆年生きようが、絶対に最後は死ぬ。
どうせいつかは死ぬし、蘇りもしない。
だったら、今を死ぬ気で生きるしかない。
恐怖こそが、人を動かす原動力である。
なんて言うと、時代遅れの恐怖政治主義者だと思われるだろうけど、原理的に正しいのだから否定の仕様が無い。
少なくとも、私は恐怖を糧に、今まで生きてきた。
だから、今になって漸く、その本を手にしたのだ。
『千の神と、ラーナ』
中身は知らない。見る気も無い。これだけで十分。
何度も見たタイトルを再確認して、ゆっくり本棚に戻し、大きく腕を伸ばした。
「さて、そろそろ、帰ってくるかぁ」
もう、空は真っ暗になっている。頃合いだ。
「その前に……」
拳を握り、顔を叩く。
意識を集中させる。
寝ぼけている場合でもない。
私は、愛乃千歳に、任されたのだから。
ジャージに着替え、適当に髪を手櫛で梳く。
「手櫛、じゃ、駄目かな」
部屋を出て階段を下る。一階の洗面室に行き、洗面台の前で顔を伏せる。
近くにあった櫛で髪を梳き、滑らかになっていく我が頭髪に首肯した。
「よし。私、可愛いぞ。きっと」
思い切り、顔を上げた。
鏡に映った、私の顔。
恥ずかしながら、私は人生で、自分の顔を見た事がなかった。たぶん、ガラスに映った顔とか、そんなぼやけたものは見ていたかもしれないけど、正確に鏡に映したのは初めてだった。
私は、私に興味が無かった。
自分がどんな顔で、どんな風に笑って、怒って、もしくは無感情? きっと威圧的?
そんなものに、全く興味をそそられなかった。頭の中は哲学的論理、数式が占拠していて、私の顔など取るに足らない問題だった。
女子として、それでいいのか?
問題ない。私は、自分の論理が見つかれば、それだけで死の了承ができる。
私など、人ではない。
鏡に映った私の顔を見て、それを確信した。
薄ら笑った、奇妙な顔の女が、そこにいるだけだった。
想像していた私は、そこには無い。
鏡に映った現実の私は、まるで知らない人だった。
想像と現実は、こうまで乖離している。
圧倒的な違和感だけが、私と私の間に存在している。
これを埋める為、女は化粧をする。
見たくないものを見てしまった。
仕方なく私は、化粧をするのであった。
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