6
夢の途中から、私は半分目覚めていた。夢見心地でベッドから体勢を起こし、膝に腕を当てて座っていた。
体の気怠さに耐えられず、項垂れている。
体が重いのも確かだったのだが、ある事に気付いてしまった。
いや、もうとっくに気付いていた。
だから、目を開けるのが怖かった。
こんな状況になり、カントの言葉が重く背中に圧し掛かる。
「目を開けた時、世界は創造される」
具体的にこんな言葉だったが忘れたけど、内容的にこんな言葉だったはずだ。
暫く蹲っていたが、私はとても飽き性で、こうして黄昏ている事にもすぐに飽きてしまった。
しかたない。目を開けて、動くか。
私は眼を開け、広がる世界を見た。
本ばかりの部屋に、早くも夕暮れの暁色が差し込んでいる。勉強机があり、その机も本だらけ。簡易なソファもあるが、そこも本だらけ。ソファの前にはガラスの丸テーブルが置いてあり、ノートパソコンが一台おいてあり、その周囲も本だらけ。本棚が五つ。ベッドの前に二つ、机の横に三つ。
特段変わったものはない。
ほっと胸を撫で降ろすのだが、この部屋が異常である事に気付いてしまった。本しかない。その上、あるべき物がこの部屋に存在していない。女子高生なら、絶対に持っているはずの物が無い。
例えば、カレンダー、もしくは手帳。姿見の鏡であったり、化粧鏡。化粧道具など一切ない。というか、携帯電話が無い。パソコンこそあるのだが、時々メールを打つ程度だ。
ついでに加えると、私の行動範囲は極端に狭い。
プライベートは概ね、この部屋と近所のコンビニを往復しているだけであり、稀な遠出は図書館巡りだ。
とりわけ、中学の頃などは、隣室の母の部屋に男が来ては宜しくやっていたものだから、部屋を一歩たりとも出なかった。
私の世界はこの部屋が全てであり、それにも関わらず時間も、存在も、流行も、交流も、全てが無縁に作られている奇妙なモノだった。
こんな生活を送っておきながら、良く「情報が足りない」なんて人に言えたものだ。
私は私で、これではもう、死んでいるのと同じだ。
髪を何度か掻きむしった。
掻き過ぎて頭皮が痛くなってきたので、嘆息して顔を上げた。
目の前には、古い本棚があった。母親が子供の頃から使っている本棚だが、母は本など読まない人間なので、私の部屋に置かれている。ペラペラの化粧板で接着も悪いから剥がれが見えているし、木目調のセンスが古い。でも中身はベニヤでできているようで、意外と強度がある。昭和風情漂う自作感が、私は気に入っていた。だからこの本棚には、歴代の気に入った作品だけを入れている。
所謂、一軍棚。ではなく、回顧棚にしている。流石に、一冊一冊が厚すぎる一軍達を入れるには強度が足らない。一軍というより、その時何があったのかを思い出せる書籍をそこに並べている。
つまり、私年表。下から順に古いものが並び、上に行くほど最近のものになる。理由は単純で、これを始めた当時では、上の棚に手が届かなかったからだ。
最下段は、絵本ばかり。「三びきのやぎとがらがらどん」とか「いないいなばあ」とか好きだった。なぜ好きだったかというと、その下段のメインに据えられているのが「エドワード・ゴーリー」である事からも分かるだろう。
怖い、という感情が「得体の知れないもの」に対応した感覚だと気づいたのは、この頃だ。
その上の段には、「押入の冒険」とか「エルマーの冒険」とか、冒険シリーズが続く。これは五歳棚だから、もう五歳の頃には、私は何かから逃げ出したかったのだろう。
そして六歳の棚にもなると数学や化学、物理学の本が並び始める。絵本畑の五歳棚から、突如として覚醒している。一番進んでいたのは数学! と言いたいところだが、まさかの哲学だった。
プラトンの「ティマイオス」だった。あの、アトランティス大陸を示唆した原本である。冒険ブームが継続していたのだろう。その横にはイデア論。この「イデア論」の中に次のような一節がある。
「1+1が2と成る事が理解できない」。全く、同感!
「1という存在と1という存在が近づいた事で、2という別の存在になってしまうのは不思議だ」全く、同感!
「それにも関わらず、2という存在から1という存在が離れると、それは1という存在になってしまう。これは、不思議だ」全く、同感!
この六歳当時、私は1から100までを順に足した時の和を、五秒で答えている。ガウス級の天才だと自負したいが、私が実際に神童扱いされたのは、このエピソードが起源となる。プラトンと全く同じ疑問を、教師に投げかけた。親にも投げかけた。
回答者はゼロだった。ゼロというか……、
「そういうものだから」
という、顔を顰める回答しか無かった。
結局、私の質疑の解答は過去の偉人達だけが述べてくれた。
確かに「イデアという世界があってだなー」なんて理屈をプラトン先生から二千年の進化を遂げた現代の私は肯定しなかったが、でも、確固たる論述を持って応えてくれた。
そんな人は、目の前には誰もいなかったから、本以外で私が誰かと語れる機会などなかったのだ。
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