演繹なのか帰納なのか

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 思考というものについて、性別で推察してみよう。


 女性は感情的に物を言う生き物であるのだが、その理由に視野の広さがあるのだと推察している。

 

 区別するなら、女性は近視、男性は遠視。

 

 女性にとって、身の回りにあるものは全て視覚で確認できている。人の細かな表情の変化も視認できる。昨日と今日の感情の変化など、見れば分かる。研究では、大よそ180°の範囲で女性は周囲を視認できている。

 

 よって、男性がなぜ論理立てて話をするのか理解ができない。

 なぜなら、見れば分かる事なのだから。

 つまり、感情で動いているわけでもなく、子宮で動いているわけでもなく、見えている事をいちいち論じられるとストレスが溜まるだけなのだ。


 でも逆に、地図が読めない。

 ひと昔前にベストセラーになった書籍から引用すると、

 「五十メートル先からだって、夫の衣服に着いた別の女の髪を発見できるのに、車のバック駐車で毎日ぶつける」らしい。


 つまり「想像ができない」のである。普段見えすぎているせいで、想像する事を苦手としている。見えないものを論じられる事に、五感が追い付かない。だから女性の創造物はいつも、お花畑が咲いたような現実味の無い話ばかりになってしまう。


 男性は、遠くを見る事に長けている。

 数キロ先の獲物を見て、その後の獲物の動きを「想像して」狩りを行っていた。ここから目標までの距離の出来事を想像しながら生きてきた。

 つまり、合理的に想像してきた。それが論理である。

 地図とは、合理的想像の塊である。紙に書かれた拙い線だけで、あらゆるものを想像しなければならない。見れば分かるものではない。


 見えない者ほど合理的になり、見える者ほど感情的になる。


 もっと噛み砕いて言えば、見えない者ほど臆病で、見える者ほど強気なのだ。


 更に言えば、人間は実に巧妙に作られている。

 腕力を持つ雄が見えない者となり、それを持たない雌が見える者となっている。この掛け算がもし逆だったのならば、人間など社会も作らぬままに共食いでもしていただろう。(もくしは雌が巨大化したか)

 

 構造主義者から言わせれば、だからこそ、こうした歴史(バランス)に落ち着いたという事になるのだろうか?

 

 かの天才、馬東クリス風に言えば「全ての事象は、0へと収束する」か。


 私としては、そんな気まぐれ解釈を受け入れる気になれない。


 ただ単純に、一つの事しかできない馬鹿ばかりだから、そうなっているだけだ。


 事実として、合理的想像のできる女性もいる。

 逆に、細かな視野を持った男性もいる。

 そのどちらもできる人間だっている。


 ただ、その数が圧倒的に少ないというだけの、ステレオタイプ問題なのだ。


 人間の、行動心理問題。

 

 つまり最大の問題は、そうした超人めいた人間ほど、不幸なのだ。


 あいにく私は不幸の真っただ中で、見えてしまったものと想像してしまったものの不可思議な因果の中で、まるで遺書でも書くかの如く数式を書きなぐっている。


 明け方の五時。雪の降った時刻などとっくに分かっていたのだが、間違っていると仮定して何度も無駄な数式を並べている。


 こんな事をしている場合ではなく、早々に寝るべきなのだ。明日の体力が無くなってしまう。


 それでも、眠るのは怖かった。


 超人と化した私が、明日、何をするのか分からなくて、怖かった。

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