5
ずっと、そんな事ばかり考えていました。体感では三十分です。でも、そうした場合、二時間くらい現実は進んでいるのです。
辺りは真っ暗で、月の光だけが差し込んでいました。
足音が、聞こえました。
高音の靴の踵の音。平たい靴。たぶん、ローファ。
それは石の階段を上がってきて、砂利を踏みつけ、頭を下げる私の前で止まりました。
目の先には茶色のローファ。靴下が黄色で、校章もあったのでバークリードの生徒だと分かります。
こんなところまで、私を探しにきたのでしょか?
そうまでして、私をころ……、
「遊んでいるからよ。自業自得」
無感情な声でした。咎めるわけでも無く、追及する気もない。そんな声です。きっと、何も知らない生徒でしょう。私が逃げるように去ったものだから、部活から探せと命令でもあった……。
あれ? 今、この人。
何て言ったの?
見当違いの言葉に、私は途端に冷静になりました。
頭から順に指先まで、ゆっくり清涼が流れて行きました。
「遊んで、とか、そんなの……」
「前半と後半がまるで別人。遊んでいるという表現が違うというなら、そうね、負けたフリでもしていたの?」
「……いや、そんなの」
「見る人が見れば即バレる。あのドラムが前半苛立ってたのも、そのせいでしょ? 違う?」
何……、この人……。
なんだよ! この人!
「なんでそんな事、訊いてくるの!」
瞬間、私は抱き寄せられた。彼女の胸は意外と大きくて、ふわりとした弾力が頬を包んだ。
「まいってるだろうと思って。まさか、神社に参ってるとは思ってなかったけど。駄目だよ、あんなの、人前でやったら」
嘘……。
「初めから、貴女でやれば良かったのに。とはいえ、できない事情があったのかな? 仮にそうだとして、あの子には荷が重い。後から出るくらいなら、初めから出てなさい」
知ってる……、どころの話じゃない!
やっぱり、
「聞いた……ん、ですね」
「誰に?」
抱きしめられた腕を振り払い、突き飛ばした。
頭が真っ白になり、燃え上がりました。
「あの女に聞いたんですか! だから、だから! だからなんなんですか!」
顔を俯け混乱する私を、彼女は何も言わず、嘆息さえもせず、呼吸音させ聞こえない程、静かに、じっくりと見つめていました。
その静けさに、私の発狂は止められました。
こんな冷徹な佇まいが、人にできるとは思えない程の落ち着きだったのです。
彼女は漸く私の頭に嘆息をすると、私の隣に座り、また、手を握って来ました。
「大丈夫だよ。私も、そっち側の人間だから」
「……」
「彼女、人形みたいだったね。指示された事を熟すだけの存在。それはそれで社会適合するには必要なもので、私も持っているのだけれど、何事も塩梅が必要なのよ。一つアドバイスをするなら、徹底した方がいい。あの外人さんみたいな女の挑発に、いちいち乗らなくていい。出すなら出す。出さないなら出さない。決めておかないと、痛い目に……、あったでしょ? 見抜く人なんか、いくらでもいるからね」
顔を俯けて反発しました。
反発はしましたが、意味のある行動とは思えませんでした。なにか、こう、人でも無いものに語り掛けているような、私の言葉など全てお見通しであるかのような、手ごたえのない手ごたえがありました。
「勝手に出た、から」
「勝手に出した、と向こうは思っているかもね」
「そんなの、思うはず、無いし」
「思うはずが無い、と貴女が思っているから思わないのかもしれない」
「感情とか、無いから」
「感情が無いのは、貴女側の認識では分からないんじゃない? 無いという確たる証拠は?」
「……」
「なーんてね。これ、論破の方法なの。『〇〇だ』という答えに対し『〇〇であるのはなぜか?』って尋ねる。これを無限後退と言って、『ルイス・キャロルのパラドックス』が有名どころ。つまり、私は私が聞きたい言論がでるまで『なぜか?』と問い続ければいい。それで、私の勝ちになる」
「……勝つとか、意味分からないです」
「でも、貴女はそれに拘っている。答えが出るまで、『なぜ』を続けてもいいんだよ?」
何も言えませんでした。
私も私で、賢い人間だと自負していました。賢いジャンルには入っているのでしょうが、その中では下層なのかもしれません。この人は、たぶん、上層階の人間です。たった数分の会話で、頷かされました。
「こんな状態で世間に顔出しさせられた理由は分からないし、そんな状態でもあんな演奏ができてしまうというのは、貴女の才能が恵まれているという事なのだろうけど、流石にこれでは先がおぼつかないよね」
その通りです。こんな私では、戦場で生き残る術が無いのです。
「でも私が思うに、英雄譚には強烈な『運』が導きとして現れるのよ。
ハンニバルがあってこそのスキピオ、スキピオがあってこそのカエサルなの。ルイ十四世があってこそのフランス革命、フランス革命があってこそのナポレオン、カエサルもナポレオンも、個人としては優秀な人間でしかなかったけど、時代の流れが、それを求めたの。
つまりは、運。
最後にサイが投げられたのが、彼等だったというだけの話。そういう意味では、貴女には色々と運がある」
貶されているようにしか聞こえませんでしたが……。
「時代の寵児に選ばれる方法は二つ。偶然か、必然か」
「……」
彼女は立ち上がり、私の頭をポンと撫でた。
「貴女は必然になる」
「なぜ?」
「必然になるべきものを、得てしまったから」
不思議な気持ちでした。
「私と、出会った。私が、貴女の脳(ブレーン)をしてあげる。
それだけで、全てが完成する」
彼女の言葉は傲慢で、偉ぶっていて、上から目線でした。
しかし、思春期特有の全能性みたいな雰囲気はまるで無く、それどころか覇気が感じられなかったのです。
何もかもを俯瞰していて、まるでここに、その考えの中にさえ自分というエゴを持たない人間のような気がしました。徹底された合理性とでも言えるかもしれません。
こんな人に会ったのは当然初めてでしたが、悪い気はしませんでした。
あの金髪の人に同じ事を言われていたら発狂していたでしょうが、そうはならず、むしろ心はとても静かに落ち着いていました。
この人に、私を任せてみたい。
守られた環境を一人で飛び出した私は、こんな初日から躓いていて、誰かが居てくれなければ音楽すらままならないと感じていて、この人はきっと、私の邪魔になるような事はしないと、なんとなく思っていたのです。
「検討は終わったみたいだから、再度聞くね。私が、必要?」
「……たぶん」
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